「ムルシリ2世」の版間の差分

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=== 遠征・外交 ===
ムルシリの治世は彼自身が残した年代記が発見されたためかなり詳しく復元されている。彼が帝王教育を受けず経験不足と侮られたことと、疫病による政治混乱により、即位直後のヒッタイト各地での反乱に繋がった。北方の[[カシュカ]]族、東方のアッジ(ハヤサ)、西方の[[{{仮リンク|アルツァ]]|en|Arzawa}}国、南東の[[アッシリア]]などである。ムルシリは四方に懲罰の遠征を繰り返し、在位7年目までにほぼカシュカ族を鎮圧し、アルツァワを概ね影響下に収めた。ムルシリは治世の最初の数年で各地の占領地から住民10万人以上を強制的にヒッタイト本国に移住させたが、これは本国が疫病による人口減少に悩んでいたためと思われる。治世4年目には西方のウィルサ王アラクシャンドゥと従属協定を結んでいるが、ウィルサは[[イリオス]]、アラクシャンドゥは[[アレクサンドロス]]の転訛と思われ、すなわち[[ホメロス]]の叙事詩「[[イリアス]]」に登場する[[イリオス|トロイア]]の王子[[パリス]]のことではないかという説がある。
 
またシュッピルリウマ1世の時代に[[アムル人|アムル王国]]に確保していた影響力を維持するべく、アムル王[[トゥピ・テシュプ]]にヒッタイトの宗主権を確認させ、[[古代エジプト|エジプト]]の影響力を排除することに努めた。エジプトでは当時[[アメンホテプ4世]]の死後[[ファラオ|王位]]を継いだ[[スメンクカーラー]]と[[ツタンカーメン]](トゥトアンクアメン)の時代で政治的混乱が続いており、ムルシリ2世は[[歴史的シリア|シリア]]への影響力維持に成功する。[[ユーフラテス川|ユーフラテス河]]中流の要衝[[エマル]]市をカルケミシュ副王の支配下に置いてシリア支配の拠点とした。在位12年目にはエジプト王[[ホルエムヘブ]]と条約を結んでアムル支配を認めさせている。