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→‎戦闘の経過: 毛利高政の落下と救出
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[[慶長]]2年([[1597年]])8月下旬、左軍に属した船手衆の[[藤堂高虎]]、[[加藤嘉明]]、[[脇坂安治]]、[[来島通総]]、[[菅達長]]と[[目付]]の[[毛利高政]]は南原城攻略後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進し、先鋒は9月7日に於蘭浦沖に達する。碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍はこれを迎え撃とうと出撃したが、日本水軍先鋒が戦わずに立ち去ると追撃することができず碧波津に帰った。朝鮮水軍では大船が十二、三隻があるだけで戦力的に劣勢だったので、後続の日本水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、15日さらに右水営沖に移った。
 
藤堂高虎らは敵の大船が近くにいることを知ってその捕獲を図り、9月16日、水路の危険を考えて全軍のうち[[関船]](中型船)数十隻(朝鮮側記録では百三十余隻<ref name = "「乱中日記」">「乱中日記」</ref>)だけを選抜して鳴梁渡へ向かった。これに対し朝鮮水軍は大船(板屋船)十二、三隻<ref>『乱中日記』では指揮下の全数が13隻と解釈できるがその全てが戦闘に参加したかは不詳であり、朝鮮側史料でも『懲毖録』など12隻とするものがある。日本側史料では『高山公実録』では13隻、『毛利高棟文書』では14隻とする。</ref>(その他後方に兵力を誇張するために動員された避難民の船百隻<ref>『毛利高棟文書』では小船数百艘</ref>があった<ref>『李忠武公全書』 卷10付録「行状」、「行録」</ref>)で迎え撃つ。当初他の船が退いて、しばらく李舜臣の船一隻だけが戦った時もあったが<ref>『乱中日記』、『李忠武公全書』 卷10付録「行状」、「行録」</ref>、僚船を恫喝して呼び戻し戦闘は継続された。日本水軍では来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの損害を受けた<ref>『日本戦史 朝鮮役』本編 368頁</ref>(朝鮮側記録では31隻<ref>李舜臣は「乱中日記」の中で31隻を撞破したと書いている。</ref>)。一方毛利高政は敵船に攻めかかったとき反撃を受けて海に落ちた。これを藤堂水軍の藤堂孫八郎と藤堂勘解由が来援して朝鮮船を撃退し毛利高政を救う<ref>『高山公実録』</ref>。

この海戦における朝鮮水軍の損害は軽微であった。しかしものの、結局のところ衆寡適せず、夕方になると朝鮮水軍は急速に退却を開始し、その日の内に唐笥島([[新安郡]]岩泰面)まで後退していったる<ref name = "「乱中日記」"/>。日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは適わなかったが、翌17日には藤堂高虎・脇坂安治らが前日の戦場を見回り、敵船の皆無を確認する。<ref>『毛利高棟文書』</ref> この日すでに朝鮮水軍は遠く於外島(新安郡智島邑)まで退却していた。<ref name = "「乱中日記」"/>これにより鳴梁海峡は日本水軍の制圧下に置かれた。
 
== 海戦後の経緯 ==