「平基盛」の版間の差分

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| 氏族 = [[桓武平氏]][[平維衡|維衡]]流([[伊勢平氏]])
| 父母 = [[平清盛]]、[[高階基章]]の娘
| 兄弟 = [[平重盛|重盛]]、'''基盛'''、[[平宗盛|宗盛]]、[[平知盛|知盛]]、[[平重衡徳子|重衡徳子]]、[[平子|子]]、<br/>[[平盛子重衡|盛子重衡]]、[[平完子|完子]]、[[平知度|知度]]、[[平清房|清房]]、[[御子姫君]]、他
| 妻 =
| 子 = [[平行盛|行盛]]、女子([[藤原季能]]室)
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続く[[平治の乱]]([[1159年]])においては、当初父清盛や異母弟[[平宗盛|宗盛]]らとともに[[紀伊国]]の熊野詣において[[藤原信頼]]らの挙兵の報に接するも、在地豪族らの協力により無事帰京を果たして反乱軍を撃破。この政変を経て[[平家]]一門の政権基盤が確立されると、基盛も一門の有力者の一人として[[左衛門佐]]、[[遠江国|遠江]]守、[[越前国|越前]]守を歴任した。しかし『[[衛門府補任]]』によると応保元年([[1161年]])九月十五日に[[高倉天皇|憲仁親王]]皇太子擁立の疑いで[[左衛門佐]]等を解官されている(親族の[[平時忠|時忠]]、[[平教盛|教盛]]も同様の疑いで同日解官されている)。
 
その直後からは押小路東洞院皇居の[[紫宸殿]]の造営の任に当たっているが、翌応保2年、同事業の完成と時期を同じくして、24歳で早世した。 定説では病死とされる<ref>[[法琳寺]]別当補任の応保2年の項に「越前守平基盛死去依任去。祈祷為依也。」とある</ref>が、『[[源平盛衰記]]』においては、[[淀川|宇治川]]を騎馬で渡河しようとした際に[[藤原頼長]]の怨霊に祟られ溺死した、と記されている。
が、『[[源平盛衰記]]』においては、[[淀川|宇治川]]を騎馬で渡河しようとした際に[[藤原頼長]]の怨霊に祟られ溺死した、と記されている。
 
一子[[平行盛|行盛]]は父の死後伯父の重盛に養われ、一門の都落ちに同行して[[壇ノ浦の戦い]]で自害している。また一女は[[兵部卿]][[藤原季能]]の室になっている。