「シャー・ナーメ」の版間の差分

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[[サーマーン朝]]支配のペルシアの詩人フェルドウスィーが[[980年]]頃より作詩に着手したといわれ、30年以上の年月をかけて[[1010年]]に完成した<ref group="注釈">サーマーン朝のもとでは、フェルドゥスィーのみならず、[[預言者]]ムハンマドの最良の『ハディース(言行録)』を編纂した[[ブハーリー]]、アヴィケンナの名で知られる哲学者・科学者の[[イブン=スィーナー]]、歴史家[[タバリー]]など、当時の[[イスラム文明]]を代表する知識人が輩出した。[[#永田|永田(2002)p.10]]</ref>。フェルドウスィーは当初、サーマーン朝の君主に作品を献呈するつもりであったが、[[999年]]に同朝は滅んでしまったため、[[ガズナ朝]]の[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]に捧げることとなった<ref>[[#清水|清水(2002)p.70]]</ref>。
 
その内容は、古代[[ペルシア]]の[[神話]]、[[伝説]]、[[歴史]]の集大成であり、最初の王[[カユーマルス]]から[[サーサーン朝]]滅亡に至る4王朝歴代50人の[[王]]の治世が述べられている。特に聖王[[ジャムシード]]([[アヴェスター]]のイマ王)や、暴君[[ザッハーク]](アヴェスターの[[アジ・ダハーカ]])、霊鳥[[シームルグ]]、[[英雄]][[ロスタム]]とその息子[[ソホラーブ]]の悲劇などはよく知られている。イランにおいては、きわめて人口に膾炙した国民的な叙事詩であり、多くの[[写本]]がつくられた。
 
特に聖王[[ジャムシード]]([[アヴェスター]]のイマ王)や、暴君[[ザッハーク]](アヴェスターの[[アジ・ダハーカ]])、霊鳥[[シームルグ]]、[[英雄]][[ロスタム]]とその息子[[ソホラーブ]]の悲劇などはよく知られている。
 
ただし、イランが[[イスラム]]化された以後に作詩された叙事詩なので、[[ゾロアスター教]]やそれ以前に由来する神話に関しては、[[一神教]]の教義に抵触しないような改変がなされている。
 
なお、概ねサーサーン朝の版図に相当する伝統的イランの地は、イスラーム以前には「イーラーン」ないし「イーラーンシャフル」と呼ばれていた<ref name=shimizu60>[[#清水|清水(2002)p.60]]</ref><ref group="注釈">「イーラーンシャフル」の範囲はだいたい、東はアム川、西はメソポタミア、北はカスピ海の南岸にかけてであり、現在のイランの国土よりも相当広い。[[#清水|清水(2002)p.60]]</ref>。「イーラーンシャフル」の語は、イスラーム期にはいると[[文献資料 (歴史学)|文献]]からほとんど姿を消してしまったが『シャー・ナーメ』においては例外的に使われている<ref name=shimizu60/>。
 
後代への影響としては、[[11世紀]]に[[セルジューク朝]]に仕えたイラン人[[宰相]]の[[ニザームルムルク]](ニザーム・アルムルク)が、自著『統治の書』(スィヤーサト・ナーメ)において、模範的君主として『シャー・ナーメ』収載された伝説上の英雄も取り上げて統治の要諦を説き、その一方で、[[トルコ人]]王朝であるセルジューク朝の由来を『シャー・ナーメ』に登場するアフラースィヤーブにまでさかのぼると説明していることが挙げられる<ref name=shimizu90>[[#清水|清水(2002)pp.90-91]]</ref>。文人としてあった名高いイラン人ニザームルムルクにとって『シャー・ナーメ』はそれだけ身近な作品であっただけでなく、イラン的世界とトルコ的世界とを結びつけようという彼の意図をそこに看取することができるのである<ref name=shimizu90/>。
 
また、[[12世紀]]に[[ルーム・セルジューク朝関係資料のひとつとして知られる]]に仕えた歴史家[[ラーヴァンディー]]の『[[胸襟の安らぎ]](胸の安らぎと喜びの証し)にもは、セルジューク朝関係資料のひとつとして知られるが、[[アラビア語]]の[[警句]]や[[ハディース]](ムハンマドの言行録)、『[[クルアーン]]』の引用のほか、『シャー・ナーメ』が引用されている<ref>[[#清水|清水(2002)p.95]]</ref>。
 
[[サファヴィー朝]]の時代においては、[[タフマースブ]]の[[工房]]で名匠たちによって共同で描かれた、[[16世紀]]の『シャー・ナーメ』の[[挿絵]] (「{{仮リンク|シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ|fr|Grand Shah Nama de Shah Tahmasp}}」)が特に有名で、250以上もの極彩色の[[ミニアチュール]]を含む巨大ってい写本であり、写本芸術の最高峰とされる<ref>[[#羽田|羽田(2002)p.214]]</ref>。
 
[[レザー・パフラヴィー]](レザー・シャー)の登場した[[20世紀]]前半のイラン・ナショナリズムの潮流にあっては、『シャー・ナーメ』は国民的叙事詩、作者フェルドウスィーは国民的詩人として顕彰された<ref name=arai427>[[#新井|新井&八尾師(2002)p.427]]</ref>。[[1934年]]には、[[日本]]を含む17か国から著名な東洋学者40人を招いて「フェルドウスィー生誕1000年祭」がひらかれている<ref name=arai427/>。また、『シャー・ナーメ』のなかの一節「知は力なり」はイランの教育標語に指定され、以後、[[パフラヴィー朝]]支配の約半世紀にわたって教育現場や[[教育行政]]においてあらゆる機会に用いられてきた<ref name=arai427/>。
 
== 邦訳 ==