「シャルル・ド・モンテスキュー」の版間の差分

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== 人物 ==
[[1689年]][[1月18日]]、[[フランス]]南西部にある[[ボルドー]]近郊で生まれた。彼が7歳のときに時、母が亡くなり、逝去。母の遺産を継いで承し、ラ・ブレード男爵となる。ボルドー大学法学部卒業した後、[[1709年]]から[[パリ]]に遊学し、[[1713年]]末、父の訃報により帰郷する。翌年、25歳でボルドー高等法院の参事官となる。[[1716年]]、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継承する。しかし実務面には関心がなく、[[1721年]]には、匿名で『ペルシア人の手紙』を匿名で出版。[[1726年]]、37歳で、ボルドー高等法学院副院長の官職を辞職。以後、学究生活に入る。[[1728年]]1月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された直後、4月から諸国遍歴の旅に出る。[[1731年]]に祖国である[[フランス]]に帰国。[[1734年]]、『ローマ人盛衰原因論』、[[1748年]]、『[[法の精神]]』を出版。
 
[[イギリス]]の政治に影響を受け、フランス[[絶対王政]]を批判し[[政治]]権力を分割し、均衡と抑制による[[権力分立|権力分立制]]の基礎を築いた。
 
[[法 (法学)|法]]とは「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、権力を分割しない統治形態による法からは政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたとわれる自身の著作『法の精神』の中で、[[政治]]権力を[[立法]]・[[行政]]・[[司法]]に分割する[[三権分立|三権分立論]]をた。
 
晩年は視力の減退に悩まされた。そんな中、著作『[[百科全書]]』のために「趣味論」の執筆に取り組んだが、完成することは無く[[1755年]][[2月10日]]にパリで逝去した。
 
[[社会学]]の父 (pères de la sociologie) と考えられている。
 
『ペルシア人の手紙』の一節では非キリスト教国の出生率の高さを離婚を許容しているためとし、また「夫婦相互の愛情に何よりも寄与するのは離婚の可能性である」とた箇所がある(女性の離婚権のみを主張)
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