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* [[アテナイ]]の[[民主主義]]体制が、[[アンティポン]]、[[テラメネス]] ([[:en:Theramenes|Theramenes]])、ペイサンドロス<!--英語版「Peisander (disambiguation)」にあるいずれの人物とも別人--> 、[[プリュニコス (アテナイの将軍)|プリュニコス]] ([[:de:Phrynichos (Politiker)|Phrynichos]]) といった、 、[[スパルタ]]やその同盟国に対する戦争に力を注ぐことを求める極端[[寡頭制|寡頭]]派によって倒され、いわゆる「四百人寡頭政」が成立した。アテナイによる[[シチリア|シケリア(シチリア)]]遠征は、完全な失敗に終わり、その後に続いた多くの従属的同盟者たちの反乱は、アテナイの財政を極端に悪化させた。革命運動の大義が、体制変革による財政再建であったにもかかわらず、財政は悪化した。しかし、高圧的な統治を行なった四百人寡頭政は、4か月間しか存続できなかった。
* アテナイの外港であるペイライエウス(現在の[[ピレウス]])の城塞化に従事していた軍部隊で反乱が発生した際、寡頭政権は鎮圧にあたるべくテラメネスを派遣した。ところが、テラメネスは自らが反乱者側に就いてその指導者となった。極端寡頭派の指導者であった[[プリュニコス (アテナイの将軍)|プリュニコス]] ([[:de:Phrynichos (Politiker)|Phrynichos]]) が暗殺されると、その後のアテナイの民会は四百人寡頭政を廃止し、伝統的な体制を復活させたが、市民の特権の一部は「五千人の政治」と称される組織によって制限されることになった。民会は、市民全員から成る委員会という形で、旧来の姿を取り戻した。
* [[トラシュブロス]] ([[:en:Thrasybulus|Thrasybulus]]) に率いられたアテナイの艦隊は、[[サルディス]]にいた[[アルキビアデス]]を呼び返した。アルキビアデスの選出は、テラメネスの求めにより、アテナイの民会でも追認された。トラシュブロスとアルキビアデスが指揮したアテナイ艦隊は、[[キュノッセマの海戦]] ([[:en:Battle of Cynossema|Battle of Cynossema]]) で[[ボスポラス海峡|ヘレスポント(ボスポラス海峡)]]にいたスパルタ艦隊を撃破した。
* [[アンティポン]]は、死刑を求刑された男による弁明としては史上最高の演説であったと[[トゥキディデス]]が評した自己弁護を行なった。しかし、告訴したものたちを説得することはできず、[[外患罪|反逆罪]]で処刑された。