「ボリス・ゴドゥノフ」の版間の差分

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== 生涯 ==
===権力の掌握===
[[ファイル:Feodor I of Russia - Project Gutenberg eText 20880.jpg|thumb|left|200px|フョードル1世]]
[[コストロマ]]地方の下級貴族の出身で、先祖は14世紀に[[モスクワ大公国]]に臣従した[[タタール]]といわれる。ボリスは[[1571年]]に[[オプリーチニナ]]隊に所属し、[[イヴァン4世]]の寵臣{{仮リンク|マリュータ・スクラートフ|en|Malyuta Skuratov}}の娘{{仮リンク|マリヤ・スクラートヴァ・ベリスカヤ|en|Maria Skuratova-Belskaya|label=マリヤ}}と結婚したことにより、権勢を得る道を開いた。
[[コストロマ]]地方の下級貴族の出身で、先祖は14世紀に[[モスクワ大公国]]に臣従した[[タタール]]といわれる。
 
[[コストロマ]]地方の下級貴族の出身で、先祖は14世紀に[[モスクワ大公国]]に臣従した[[タタール]]といわれる。ボリスは[[1571年]]に[[オプリーチニナ]]隊に所属し、[[イヴァン4世]]の寵臣{{仮リンク|マリュータ・スクラートフ|en|Malyuta Skuratov}}の娘{{仮リンク|マリヤ・スクラートヴァ・ベリスカヤ|en|Maria Skuratova-Belskaya|label=マリヤ}}と結婚したことにより、権勢を得る道を開いた。
[[1580年]]には大貴族に叙せられ、妹の[[イリナ・ゴドノヴァ|イリナ]]が皇子[[フョードル1世|フョードル]]の妃となる栄誉に恵まれた。有能な顧問官として[[イヴァン4世]]の信任厚く、[[1584年]]に義弟が[[フョードル1世]]として即位すると、摂政団の一員となる。さらに[[1588年]]までに[[ヴァシーリー4世|ヴァシーリー・シュイスキー]]などのライバルを一掃し、以後は単独で国政を指導した。
 
有能な顧問官として[[イヴァン4世]]の信任厚く、[[1580年]]には大貴族に叙せられたうえ、妹の[[イリナ・ゴドノヴァ|イリナ]]が皇子[[フョードル1世|フョードル]]の妃となる栄誉に恵まれた。有能な顧問官として[[イヴァン4世]]の信任厚く、[[1584年]]に義弟が[[フョードル1世]]として即位すると、その摂政団の一員となる。さらに[[1588年]]までに[[ヴァシーリー4世|ヴァシーリー・シュイスキー]]などのライバルを一掃し、以後は単独で国政を指導した
 
さらに[[1588年]]までに大貴族の[[イヴァン・シュイスキー]]や[[ヴァシーリー4世|ヴァシーリー・シュイスキー]]などのライバルを一掃し、以後は単独で国政を指導しすることとなった。
 
===皇弟ドミトリーの死===
[[ファイル:1899. Tzarevich Dmitry by M. Nesterov.jpg|thumb|right|200px|ドミトリー]]
[[1591年]]、フョードル1世の異母弟で後継者の[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]が謎の死を遂げると、ボリスが死因調査を命じたヴァシーリー・シュイスキーは、ドミトリーがナイフを持って遊んでいたとき癲癇の発作を起こし、自分の持っていたナイフで喉を傷つけてしまった、と事故と判断し因調査命じた。
 
ヴァシーリー・シュイスキーは、ドミトリーがナイフを持って遊んでいたときに癲癇の発作を起こし、自分の持っていたナイフで喉を傷つけてしまった、と事故死と判断した。
しかし、人々の間ではツァーリの座を狙うボリスの仕業だという噂がまことしやかに語られ、これ以降彼の人生に重くのしかかることとなった(ボリスの関与は確固とした証拠がなく不明である)。
 
しかし、ドミトリーは子供のいなかった兄フョードル1世の事実上の後継者であったことから、人々の間ではツァーリの座を狙うボリスの仕業だという噂がまことしやかに語られ、これ以降彼の人生に重くのしかかることとなった(ボリスの関与は確固とした証拠がなく不明である)。
 
ただ、ボリスが関与したという話は確固とした証拠がなかったため、この時点では彼にさほど影響を与えなかった。
 
===摂政としての政治===
[[File:Baidana rings.JPG|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフの鎧]]
外交面では[[イングランド]]と友好を強め、[[1590年]]からの{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年-1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–1595)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}に勝利して[[フィンランド湾]]沿岸部を回復した。西シベリアへの進出も成功を収め、[[イェルマーク]]の率いる[[コサック]]傭兵軍団は、[[1598年]]には[[シビル・ハン国]]を滅ぼしてモスクワ国家の版図を拡げた。また[[1589年]]に[[モスクワ総主教]]座が置かれ、[[正教会]]内でのモスクワの地位を高めた。
外交面では[[イングランド]]と友好を強め、[[1590年]]からの{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年-1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–1595)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}に勝利して[[フィンランド湾]]沿岸部を回復した。
 
外交面では[[イングランド]]と友好を強め、[[1590年]]からの{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年-1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–1595)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}に勝利して[[フィンランド湾]]沿岸部を回復した。西シベリアへの進出も成功を収め、[[イェルマーク]]の率いる[[コサック]]傭兵軍団は、[[1598年]]には[[シビル・ハン国]]を滅ぼしてモスクワ国家の版図を拡げた。また[[1589年]]に[[モスクワ総主教]]座が置かれ、[[正教会]]内でのモスクワの地位を高めた。
 
しかし当時のモスクワ国家は甚大な経済的・社会的危機を迎えていた。飢饉と重税のため逃亡農民が激増し、労働力不足と税収の落ち込みで国家・社会は停滞しつつあった。ボリスは農民の移動制限などで対処したが、効果は出なかった。南部や東部へ大量に逃亡・移住した農民やコサックを、国家はうまく管理出来なかった。
 
===即位とその治世===
[[File:Sergei Prokudin-Gorskii - Feodor Chaliapin as Boris Godunov.jpg|thumb|rihgt|200px|頭を抱えるボリス・ゴドゥノフ。彼は7年間ロシアを統治したが、その治世は混乱を極めた。]]
1598年[[1月]]、男子のないフョードル1世が崩じて[[リューリク朝]]が絶えると、摂政で義兄のボリスが[[ゼムスキー・ソボル|全国会議]]でツァーリに選出された。ボリスが貴族会議による権限制約を拒むと、リューリクの流れをくまないボリスは帝位を受ける出自でないと、貴族から反発が挙がった。
 
ボリスは[[フィラレート (モスクワ総主教)|フョードル・ロマノフ]]ら主だった有力貴族を失脚させ、反対派を力で抑え込んだ。ボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるった。農民や逃亡奴隷が暴動をおこして国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった。
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==人物像==
[[ファイル:Godunov map.jpg|thumb|right|200px|息子フョードルの勉強を見るボリス]]
[[File:Усыпальница Годуновыхъ.jpeg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフの墓所]]
ボリス・ゴドゥノフは黒髪で長身と端正な容貌の持ち主で、猜疑心が強い性格だったらしい。西欧の文化に心酔しており、息子フョードルには西洋志向の高度な教育をうけさせ、イギリス貴族を子供たちの結婚相手にしようと考えていた時期もあった。[[19世紀]]始めの歴史家[[ニコライ・カラムジン]]からは「[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]のような性質の持ち主」と評されている。
ボリス・ゴドゥノフは黒髪で長身と端正な容貌の持ち主で、猜疑心が強い性格だったらしい。
 
ボリス・ゴドゥノフは黒髪で長身と端正な容貌の持ち主で、猜疑心が強い性格だったらしい。西欧の文化に心酔しており、息子フョードルには西洋志向の高度な教育をうけさせ、イギリス貴族を子供たちの結婚相手にしようと考えていた時期もあった。[[19世紀]]始めの歴史家[[ニコライ・カラムジン]]からは「[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]のような性質の持ち主」と評されている
 
そのため、[[19世紀]]始めの歴史家[[ニコライ・カラムジン]]からは「[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]のような性質の持ち主」と評されている。
 
その生涯を扱った作品としては、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の史劇『ボリス・ゴドゥノフ』と、それに着想を得た[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]の同名の[[歌劇]]『[[ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)|ボリス・ゴドゥノフ]]』が代表的。
 
==ドミトリーの殺害について==
ボリス・ゴドゥノフがフョードル1世の弟ドミトリー暗殺した説は暗殺当初から人々の間で噂され、オペラの題材にされるなど300年以上にわたり信じられてきた。

しかし、そのようなことをすればフョードル1世の摂政をしていた彼に疑いの目が向くのは必至であり、頭の良かった彼がわざわざそのようなことをするのか、というのが最近のロシア歴史家の見解であり、この暗殺説はあまり信じられなくなってきている。
 
となると、ヴァシーリー・シュイスキーの当初の見解通り、ドミトリーはナイフを持って遊んでいたときに癲癇の発作を起こし、自分の持っていたナイフで喉を傷つけてしまったという事故説と考えるのが妥当であり、この説が近年有力となっている。