「アンティパトロス」の版間の差分

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また、王の留守を狙って[[紀元前332年]]に[[トラキアのメムノン]](ペルシアの将軍の[[メムノン]]とは別人)が、[[紀元前331年]]に[[スパルタ王]][[アギス3世]]がマケドニアに対して反乱を起こした。アンティパトロスは[[二正面作戦]]を避けるためにメムノンを許し、アギスと戦った。紀元前331年、アンティパトロスは[[メガロポリスの戦い]]でアギスを破り、反乱を鎮圧した。そして、彼自身のアギスへの勝利、[[エピロス王]][[アレクサンドロス1世 (エピロス王)|アレクサンドロス1世]]の[[イタリア遠征]]の失敗、トラキアでの将軍[[ゾピュリオン]]の敗死などを手紙で王に報告した<ref>ユスティヌス, XII. 1</ref>。同年にアンティパトロスは東征軍へと増援部隊を送った<ref>アッリアノス, III. 5</ref>。
 
アンティパトロスはアレクサンドロスの母[[{{仮リンク|オリュンピアス]]|en|Olympias}}とは当初は友好的な関係で、アレクサンドロスは実は彼の子だという噂が流れるほどであったが、この気の強い王母との関係は徐々に悪化した。現に、東征の間、アンティパトロスとオリュンピアスはアレクサンドロスへと互いを中傷する手紙を書き送っている<ref>ibid, VII. 12</ref>。
 
[[紀元前323年]]、アレクサンドロスはアンティパトロスに新兵を[[アジア]]まで率いてくるように命じ、その一方で[[クラテロス]]にベテラン兵たちを本国へ返し、アンティパトロスの地位を引き継ぐよう命じた<ref>ibid, VII. 12</ref><ref>ユスティヌス, XII. 12</ref>。しかし、摂政位の交代は王の死によりなされることはなかった。アレクサンドロスの死は一般的には[[マラリア]]による病死とされるが、[[ユニアヌス・ユスティヌス|ユスティヌス]]によれば、王に親しい友人たちを殺され、ギリシアでの勝利のために王から疎まれ、さらにオリュンピアスの中傷を受けていたアンティパトロスが、王の執事をしていた息子の[[カッサンドロス]]に命じ、王に毒をもって暗殺させたという<ref>ユスティヌス, XII. 14</ref>。アッリアノスによれば、その毒は[[アリストテレス]]の調合したものであったという<ref>アッリアノス, VII. 27</ref>。
アレクサンドロスの死後、[[バビロン会議]]でマケドニアの実権を握った[[ペルディッカス]]はアンティパトロスにマケドニア本国およびギリシアの支配権を認め、ペルディッカスを含む他の重臣らと共同で未だ生まれぬアレクサンドロスと[[ロクサネ]]の子(後の[[アレクサンドロス4世]])の暫定的な[[後見人]]となった<ref>ユスティヌス, XIII. 2, 4</ref>。
 
[[紀元前322年]]、アンティパトロスはアレクサンドロスの死に乗じたアテナイ、[[アイトリア]]、そして[[テッサリア]]の反乱([[{{仮リンク|ラミア戦争]]|en|Lamian War}})に遭った。緒戦で反乱軍に破れた彼は[[ラミア]]に包囲されたが、[[レオンナトス]]、クラテロスの助けを借りつつ、[[クランノンの戦い|クランノン]]で敵を破り、反乱を鎮圧した。
 
その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘との婚約を破棄し、オリュンピアスの娘と結婚したり、彼が帝国の全支配者になろうとしているとの知らせを受けるなどしたため、次第にアンティパトロスと他の将軍たちはペルディッカスと対立していき、アンティパトロスはクラテロス、[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]らと共に反ペルディッカス同盟を組み、戦争となった<ref>ibid, XIII. 6</ref>。
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