「宇都宮広綱」の版間の差分

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天文18年([[1549年]])、父・尚綱が[[那須高資]]との戦いで敗死すると、5歳という幼少であったため、家臣の[[芳賀高定]]に守られて[[宇都宮城]]を落ち延び、[[真岡城]]にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年([[1551年]])、父の仇である高資を殺害し、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])には、反抗的な家臣[[芳賀高照]]を高定が暗殺し、宇都宮城を占領していた[[壬生綱房]]が急死したことで、弘治3年([[1557年]])、宇都宮城は広綱の手に戻った。
 
その後は[[上杉謙信]]と同盟を結んで関東制覇を目指す[[後北条氏]]やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。一時的に北条氏に屈したこともったが、[[佐竹氏]]らと同盟を結んで、独立を保持した。
 
しかし[[天正]]4年([[1576年]])8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。