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{{基礎情報 公家
'''藤原 成親'''(ふじわら の なりちか、[[保延]]4年([[1138年]]) - [[安元]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]([[1177年]][[8月4日]]))は、[[平安時代]]末期の[[公卿]]。[[中納言]]・[[藤原家成]]の子。[[正二位]]・[[大納言|権大納言]]。
| 氏名 = 藤原成親
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[平安時代]]末期
| 生誕 = [[保延]]4年([[1138年]])
| 死没 = [[安元]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]([[1177年]][[8月4日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正二位]]・[[大納言|権大納言]]
| 主君 = [[近衛天皇]]→[[後白河天皇]]→[[二条天皇]]→[[六条天皇]]→[[高倉天皇]]
| 氏族 = [[藤原北家]]末茂流
| 父母 = 父:[[藤原家成]] 母:[[藤原経忠]]女
| 兄弟 = [[藤原隆季|隆季]]、'''成親'''、[[藤原実教|実教]] [[藤原家成#系譜|ほか]]
| 妻 = [[藤原親隆]]女、督の君、[[後白河院京極局]]
| 子 = [[藤原成経|'''成経''']]、[[建春門院新大納言]] [[#系譜|ほか]]
| 特記事項 =
}}
'''藤原 成親'''(ふじわら の なりちか、[[保延]]4年([[1138年]] - [[安元]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]([[1177年]][[8月4日]]))は、[[平安時代]]末期の[[公卿]]。[[中納言]]・[[藤原家成]]の子。[[正二位]]・[[大納言|権大納言]]。
 
== 生涯 ==
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[[平治の乱]]では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・[[藤原経子 (藤原家成の四女)|経子]]が[[平重盛]]の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く[[解官]]にとどまった。『[[愚管抄]]』によれば、「フヨウノ若殿上人」<ref>「フヨウ」の意味については「不要」(取るに足らない)の他に、「芙蓉」(美貌)、または「武勇」とする解釈もある(元木泰雄「藤原成親と平氏」『立命館文学』605、2008年)。</ref>とみなされたという。
 
[[永暦]]2年([[1161年]])4月、成親は右中将に還任する。美福門院の死後、後白河院政派と二条親政派の対立は激化しており、後白河上皇は自らの政治基盤の強化を意図していた。しかし同年7月に、[[平時忠]]らによる憲仁親王(後の[[高倉天皇]])立太子の[[陰謀]]が発覚すると、[[二条天皇]]はただちに後白河院の近臣を解官した。成親もその中に含まれており、翌年には召還されるものの昇進は停滞し、二条親政下の政界では雌伏を余儀なくされる。
 
二条天皇[[崩御]]後の[[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]])正月、成親は左近衛中将に任じられる。後白河院の復権の恩恵を受けて、同年6月[[蔵人頭]]、8月[[参議]]、12月には5人の上臈を超えて、29歳にして[[正三位]]に叙せられた。この年の10月には憲仁親王の立太子が実現し、後白河院は[[平清盛]]の後援を得て[[院政]]を本格的に開始した。成親は翌年、[[中納言|権中納言]]となる。平重盛の義兄であることから重盛との関係は親密で、[[建春門院新大納言|娘]]は後に重盛の嫡子・[[平惟盛|維盛]]の妻となっている。[[嘉応]]元年([[1169年]])11月、[[高倉天皇]]の八十嶋祭では経子が[[勅使]]役を務め、成親も兄・隆季や平氏一門とともに付き従った。更に保元の乱に際して父・頼長に連座して配流されていた[[藤原師長]]が中央に復帰すると、成親は師長に娘を嫁がせてその復権に協力している<ref>元木泰雄は、成親は師長が公家の長である摂関家を、重盛が武家の長である伊勢平氏を掌握させることで自分が両者の後見人として政治の実権を握る構想を抱いていたとみる(元木泰雄「平重盛論」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)。</ref>。
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『愚管抄』によれば、成親は「何事ニカメシノ候ヘバ見参ハセン(何事か御召しがあったので参りました)」と公卿座にいた平重盛・[[平頼盛|頼盛]]に挨拶して奥に入ったところ、清盛の家人・[[平盛俊]]に縄をかけられ部屋に押し込められてしまい、驚いた重盛が「コノタビモ御命バカリノ事ハ申候ハンズルゾ(今度もあなたの命だけはお助けするようにと、父の清盛に頼んでみます)」と励ましたという。西坂本まで下っていた大衆は「敵を討っていただいたことは喜ばしい」と、清盛に返礼を述べている。成親は嘉応の強訴以来、西光と並んで延暦寺の宿敵だった。
 
『[[百錬抄]]』が「成親卿已下密謀有るの由」、『愚管抄』が「成親、西光、[[俊寛]]ナド聚(あつま)リテヤウヤウノ議ヲシケルト云事ノ聞エケル」と記しており、平氏打倒の謀議があったことは事実と思われる。成親が陰謀を企てた理由として、『[[平家物語]]』は辞職した藤原師長の後任の[[近衛大将|左近衛大将]]の[[藤原師長]]の辞職した後任を所望したところ、平重盛と[[平宗盛]]の兄弟が左右大将に任命されたことを恨みとしたとするが、大将になれるのは限られた家柄のみであり、成親の身分で大将を望むのは現実的でなく事実かどうか疑わしい。同じ話は『[[平治物語]]』にも藤原信頼の逸話として見え、『平治物語』と『平家物語』の成立は同時期と考えられることから、双方ともに文学的虚構である可能性も否定できない。
 
6月2日、成親は[[備前国]]に配流され、18日、[[解官]]された。平重盛から衣類を送られるなどの援助を受けていたが、7月9日に死去した(『百錬抄』)。食事を与えられずに殺害されたといわれる(『愚管抄』)。
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** 男子:藤原成宗 - [[藤原師長]]の[[養子縁組|養子]]
** 女子:藤原師長室
* 妻:督の君(源忠房の娘 - [[二条天皇]][[女房]]
** 男子:[[藤原親実]]([[1168年]] - [[1215年]])
* 妻:[[後白河院京極局]]([[藤原俊成]]の娘)<ref>系譜上、同じ俊成の娘八条院坊門局との混乱が認められ、公佐や成子の母を坊門局とする説もある。</ref>