「多品治」の版間の差分

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'''多品治'''(おおのほんじ、生年不詳 - [[持統天皇]]10年 ([[696年]]) 8月25日?)は、日本の[[飛鳥時代]]の人物である。旧仮名遣いでの読みは「おほのほむぢ」。姓ははじめ[[臣]]、後に[[朝臣]]。[[672年]]の[[壬申の乱]]で大海人皇子([[天武天皇]])の側にたって戦い、功績があ莿萩野を守て敵を撃退した。
 
== 壬申の乱での活躍 ==
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大海人皇子は、自身が行動をおこす2日前の6月22日に、[[村国男依]]、[[和珥部君手]]、[[身毛広]]は3人で[[美濃国]]に先行するよう命じた。彼らの任務は多品治に連絡し、まず安八磨郡を挙兵させることであった。彼らと多品治は無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。
 
美濃国に入った大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手に分けて、一軍を[[伊勢国]]の大山越えで倭([[大和国]])へ、もう一軍を直接[[近江国]]に入らせることを命じた。多品治は、[[紀阿閉麻呂]]、[[三輪子首]]、[[置始|置始莬]]とともに大和に向かう軍を率いた。この後で品治は別に命令を受け取り、3千の兵とともに莿萩野(たらの)に駐屯することになった。莿萩野の位置については、伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部との説が有力であるが、いずれにせよ大和 - 伊賀 - 伊勢 -美濃と続く連絡線のうち伊賀を守る位置である。これと別に、[[田中足麻呂]]が近江と伊賀を結ぶ倉歴道を守る位置についた。
 
これに対して大友皇子側の将、[[田辺小隅]]は、5日に倉歴に夜襲をかけた。守備兵は敗走し、足麻呂は一人逃れた。小隅の軍は翌日莿萩野を襲おうとしたが、多品治はこれを阻止し、精兵をもって追撃した。小隅は一人免れて逃げた。以後大友方の軍勢が来ることはなかった。