「大久保忠素」の版間の差分

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[[1894年]](明治27年)[[2月10日]]、[[東京府]][[東京市]][[神田区]](現在の[[東京都]][[千代田区]][[神田 (千代田区)|神田]])に生まれる<ref name="kinejun97" />。
 
[[明治大学]]文科を卒業後、[[有楽座]]の舞台監督を務める。1920年(大正9年)6月、松竹蒲田撮影所に入社。[[ヘンリー・小谷]]、[[野村芳亭]]に助監督として師事する<ref name="kinejun97" /><ref>『松竹七十年史』、[[松竹]]、1964年、p.248</ref>。1922年(大正11年)、監督に昇進する。同年に[[斎藤寅次郎]]が入社、翌1923年(大正12年)に小津安二郎が撮影助手から異動し、それぞれ大久保の助手となる。[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]がオリジナルシナリオを書き下ろした『[[地蔵物語]]』が監督昇進3作目にして大ヒットとなる<ref name="kinejun97" />。1924年(大正13年)、[[プロスペル・メリメ]]の『[[カルメン]]』を原作として監督した『[[灼熱の恋]]』で、カルメンを演じる[[五月信子]]がホセを演じる[[勝見庸太郎]]に身を委ねるシーンが検閲により削除される。
 
1930年(昭和5年)、[[牛原虚彦]]監督の『進軍』に「進行部長」としてクレジットされているが<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1930/bf001320.htm 進軍]、日本映画データベース、2010年1月7日閲覧。</ref>、これは現在でいう「製作部長」である。このころから監督業からは引退し、製作サイドの管理職に回った<ref name="kinejun97" />。
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;1952年
* 『[[大仏さまと子供たち]]』 : 監督・脚本清水宏、配給[[新東宝]] - 製作同人
 
== 参考書籍 ==
* 『日本の映画人: 日本映画の創造者たち』(佐藤忠男著 2007年 日外アソシエーツ)
 
== 註 ==