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[[Image:Pliska-svik.jpg|right|thumb|270px|第一次ブルガリア帝国時代の都市プリスカの廃墟跡]]
'''プリスカ''' ([[ラテン文字]]:Pliska、{{Lang-bg|Плиска}}, {{lang-cu|Пльсковъ}}、ラテン文字転写: Plĭskovŭ) は[[ドナウ川]]下流域に建設された[[第一次ブルガリア帝国]]の最初の[[首都]]であり、現在では[[シュメン州]]の村である。以前はアボバ (Aboba)と呼ばれていたが、ブルガリア帝国の遺跡が発掘された後に現在の名前に改名された。
 
==歴史上のプリスカ==
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プリスカは811年に[[東ローマ帝国]]により焼き払われ廃墟にされたが、東ローマ帝国軍はこの後[[クルム (ブルガリア皇帝)|クルム]]・ハーンに壊滅的な敗北を喫することになる。([[プリスカの戦い]]を参照) 886年、[[ボリス1世]]はプリスカ書記学校 ({{仮リンク|聖ナウム|en|Saint Naum}}が運営、893年に{{仮リンク|プレスラフ書記学校|en|Preslav Literary School}}へと名称変更)を創設した。
 
892年、プリスカ跡地は{{仮リンク|ヴラディーミル (ブルガリア帝国)|label=ヴラディーミル|en|Vladimir of Bulgaria}}の異教復活の場となった。このことが彼の父であるボリス1世の怒りを買ってヴラディーミルは廃位され、代わりに第3子であった[[シメオン1世]]が周辺地域を治めることになった。シメオン1世は首都を廃墟となっていたプリスカから付近に築いた城塞都市の{{仮リンク|プレスラフ|en|Preslav}}へと移した。これは旧首都には異教を信仰するものが多く影響を免れなかったためであると考えられている。
 
10世紀にはプリスカの重要性はプレスラフへの権力集中とともに次第に低下していった。プリスカは969年から972年にかけて[[キエフ大公国]]や[[東ローマ帝国]]の襲撃を受け再び廃墟と化し、これ以降再建されることはなかった。