「吹奏楽の歴史」の版間の差分

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この流れに属するものに、[[1996年]]の英国映画「[[ブラス!]]」で一躍有名となった[[グライムソープ・コリアリー・バンド]]などがあり、これは聴衆を相手にして聴かせることよりも、[[娯楽]]の少ない[[炭坑]]等において、演奏すること自体をみずから楽しむという自足的な要素をもっていた<ref name=abe38/>。[[ヴィクトリア朝]]の時代、特に19世紀後半のイギリスの上流階級では、健全な[[娯楽]]を[[労働者]]にあたえれば、かれらの[[美徳]]を育て、[[資本主義]]社会に対する不満を和らげ、解消することができるであろうという[[社会改良論]]が起こり、一般における吹奏楽活動の流行を支えた<ref name=hosokawa59/>。[[資本家]]もさかんに楽器購入の資金援助などアマチュアバンドの育成を支援している。イギリスではすでに[[1840年代]]に[[アマチュア]]音楽家向けの[[楽譜]]つき[[雑誌]]が刊行され、[[1860年代]]にはバンド間の連携が密になって「ブラスバンド運動」の動きが活発化した。各種のコンテストもさかんに開かれて活況を呈し、19世紀末には全英で3万ないし4万のバンドがあったとさえいわれている<ref name=hosokawa59/>。
 
ブラスバンドの興隆はまた、一面では[[帝国主義]]の時代と重なっていたため、欧米列強の膨張政策にともなって世界各地に広がっていった。ヨーロッパ音楽とローカルな音楽との混淆は世界各地でみられた<ref name=hosokawa63>[[#細川|細川(2001)pp.63-67]]</ref>。土着の歌が吹奏楽で演奏される一方で、西洋音階が出せるよう土着の伝統楽器に改良が施されることもしばしばあった<ref name=hosokawa63/>。[[ネパール]]、[[インド]]、[[バルカン半島]]諸国における[[結婚式]]、[[フィリピン]]や[[スリナム]]、[[ガーナ]]での葬式、[[ボリビア]]や[[メキシコ]]における宗教儀礼など、西欧以外の各地域でも、吹奏楽演奏の場が成立することはバンド市場の発生を促した<ref name=hosokawa67>[[#細川|細川(2001)pp.67-74]]</ref>。しかし、吹奏楽の伝播はしばしば[[植民地]]権力の啓蒙的な意向から外れる方向に進むこともあり、実際にガーナでは、ブラスバンドは風紀を乱すものとしてキリスト教教会より断罪され、バンドは当局からの弾圧を避けるため、隠れて演奏することを余儀なくされた<ref name=hosokawa67/>。
 
[[ファイル:JohnPhilipSousa-Chickering.LOC.jpg|left|thumb|140px|『[[星条旗よ永遠なれ]]』や『[[エル・カピタン]]』で知られる「マーチ王」[[ジョン・フィリップ・スーザ]]]]