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'''葛野王'''(かどののおおきみ)(669年?-705年12月)は大友皇子([[弘文天皇]])の第一皇子。母は[[十市皇女]]。孫には[[淡海三船]]がいる。文に長けていたと伝えられているが、[[壬申の乱]]で敗れた[[弘文天皇]]の皇子であるため、朝廷内でも当初は評判が悪かったようである。しかし、696年(持統10年)の[[高市皇子]]の死去の後、[[持統天皇]]が数ある[[天武天皇]]の皇子達を退け孫の軽皇子(後の[[文武天皇]])を皇太子にしようとした際、それに組し、日本では古来から直相続が行われており、兄弟相続は争いのもとだとして天皇位の直系相続を主張した。これは何とかして自分の評判を上げようと考えたためであると思われるが、実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて[[弓削皇子]]が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝。弓削皇子も持統天皇の意向を結局は呑み、軽皇子は皇太子に任命された。葛野王は後に正四位の位を授けられ、式部卿の地位に任ぜられた。[[弘文天皇]]、[[十市皇女]]の父母の影響から、決して幸せな人生を送ったとは言いがたいが、彼なりに必死にその時代を生き抜こうとしたことが窺える逸話である。
 
[[Category:飛鳥・奈良時代の皇族|かとのおおきみ]]