「ヴァシリー・カリンニコフ」の版間の差分

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[[1892年]]に[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]に認められ、[[マールイ劇場]]の指揮者に推薦され、それから同年に[[モスクワ]]のイタリア歌劇団の指揮者も務める。以前からの過労が祟って健康が悪化し、[[結核]]に罹患したために、やむなく劇場での活動を断念し、温暖な気候のもとでの転地療養を余儀なくされて[[クリミア]]南部に向かう。生涯の終わりを[[ヤルタ]]で過ごした。2つの[[交響曲]]と[[アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ]]の《皇帝ボリス》のための劇付随音楽は、同地で作曲されている。
 
[[セルゲイ・ラフマニノフ]]が楽譜出版社ユルゲンソンにかけ合ったおかげで、3つの歌曲が120[[ルーブル]]で買い取られ、その後《[[交響曲第2番 (カリンニコフ)|交響曲 第2番]]》も売れた。[[循環形式]]を用いた《[[交響曲第1番 (カリンニコフ)|交響曲 第1番 ト短調]]》は、作曲者の存命中に[[モスクワ]]のほか[[ベルリン]]や[[ウィーン]]、[[パリ]]でも演奏されたが、病が悪化していたため[[1897年]]の初演にも立ち会うこともかなわなかった。交響曲 第1番の出版と35歳の誕生日を目前にして世を去った。ユルゲンソン社主ピョートルは、後にカリンニコフが受け取るべき報酬を水増しして未亡人に支払った。
 
病のため、カリンニコフは[[ウラル山脈]]の山荘に転居した。小品の多くがこの地で書かれたが、カリンニコフは稼ぎが無いまま一生を終えた。