「織田長益」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 織田 長益
| 画像 =Oda_Nagamasu.jpg
| 画像サイズ =250px
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[[織田信秀]]の十一男で、'''有楽斎如庵'''(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では'''有楽'''、'''有楽斎'''と称される。
 
[[千利休]]に[[道]]を学び、[[利休七哲|利休十哲]]の1人にも数えられる。後には自ら[[茶道]][[有楽流]]を創始した。また、[[京都]][[建仁寺]]の[[正伝院]]を再興し、ここに立てた茶室[[如庵]]は現在、[[国宝]]に指定されている。
 
== 生涯 ==
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* [[大坂の陣]]では家康の命を受け、隠密として働いていたともされる<ref>『[[譜牒余録]]』</ref>が、確証の持てる話ではない。しかし、家康・淀殿双方に顔が効く有楽斎が、両者和解のため大坂に入り頻繁に連絡を取り合っていたのは確かで、その行動が[[間者]]と誤解された可能性はある。
* 有楽斎が堺占拠の際捕らえられた[[今井宗薫]]を赦すなど穏健的行動をとっていたのに対し、嫡男頼長は[[片桐且元]]殺害を計画し信雄を大坂方の総大将に担ごうとするなど、過激的行動を幕府側にも警戒されており、有楽斎とも対立していた。また頼長は冬の陣では仮病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く、夏の陣前に「自分を司令官にしろ」と主張して諸将の反対にあい出奔している。有楽斎の大坂城退去は、この頼長の奇行も原因のひとつとされている。
* [[高麗茶碗|大井戸茶碗]]<small>(おおいどちゃわん)</small>は、長益が所持していた経歴から「有楽井戸」などの別名を持つ。
 
== 有楽町 ==
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==関連作品==
=== 小説 ===
*[[堀和久]]『織田有楽斎』  講談社、のち同文庫
*[[斎藤史子]]『小説・織田有楽斎 幻の茶器』  [[淡交社]]、2003年
*[[岳宏一郎]]「花の下  織田有楽斎」  [[講談社文庫]]、『花鳥の乱―利休の七哲』収録
*[[井上靖]]『本覚坊遺文』  [[講談社]]、のち同文庫。
*[[菅靖匡]]『小説 織田有楽斎』  [[学研M文庫]]
 
=== 漫画 ===
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