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ディラキウムは、1082年に東ローマ皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]の手から失われた。彼は[[ノルマン人]]([[ロベール・ギスカール]]と息子の[[ボエモン1世]])に打ち負かされたのである(1081年のディラキウムの戦い[[:en:Battle of Dyrrhachium (1081)|en]])。東ローマは、ボエモンが1107年に敗退すると再びディラキウムを取り戻すが、1185年に[[シチリア王国]][[オートヴィル朝|ノルマン朝]]の[[グリエルモ2世]]が占領した。1202年、[[第四次十字軍]]の最中には、市はヴェネツィア共和国の支配下へ移された。シチリア王[[マンフレーディ]]が短期間治めた後、1268年には[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]のシチリア王[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル]](イタリア名カルロ1世ダンジョ)の手に渡った。
 
5年後の1273年頃、ディラキウムは大地震に見舞われたがすぐに復興し、カルロ1世ダンジョの孫[[ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ|ジョヴァンニ・ディ・グラヴィナ]]が治める独立した公国となった。後にジョヴァンニの同族で[[ラテン帝国]]皇帝を僭称していた[[ターラント]]公フィリッポ1世ダンジョの支配を受けた。1333年、市はフランク系の[[アカイア公国]]に併合されるが、領土を拡大してきた[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]の王[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]に1336年に占領された。ウロシュが1355年に死ぬと、市はアルバニア貴族トピアス家(Thopias)に支配されるようになった。
 
1392年に[[ヴェネツィア共和国]]が市を掌握し、[[アルバニア・ヴェネタ]]([[:en:Albania Veneta|Albania Veneta]]、現在のモンテネグロ沿岸から北部アルバニア沿岸部を指す)の一部であるドゥラッツォとして知られるようになった。1466年、[[オスマン帝国]]の[[スルタン]]、[[メフメト2世]]軍に包囲され、これを防ぐものの、1501年に陥落した。