「海老原博幸」の版間の差分

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* [[1967年]]4月10日、後の日本フライ級王者である[[スピーディ早瀬]]([[中村ボクシングジム|中村]])と対戦。10R判定勝ち。
* 1967年8月12日、世界王座挑戦が決定していた[[田辺清]]([[田辺]])が[[網膜剥離]]にて引退、ピンチヒッターとして再びオラシオ・アカバリョの世界王座に同級3位としてブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにて挑戦。序盤はリードするものの、6Rに左拳を再び骨折、後半アカバリョの反撃に見舞われ、またも15R判定負け<ref name="JapanProBoxingHistory" />。
* [[1969年]]3月30日、[[中島公園|札幌中島スポーツセンター]]にてWBA世界フライ級2位として同級1位[[ホセ・セベリノ]]({{BRA}})と空位となっていたWBA世界フライ級王座を賭けて対戦。試合前、痛めた右拳に麻酔を打ち試合に臨むが3Rに切れてしまった上、9Rには左拳も痛めるが、1R、2R、15R序盤と終盤に自慢の左を決めるなど最後まで攻め続け大差の15R判定勝ち。再度世界王座を獲得した<ref name="JapanProBoxingHistory" />。
* 1969年10月19日、[[大阪府立体育会館]]にて同級2位の[[バーナベ・ビラカンポ]]({{PHL}})との初防衛戦。序盤は優勢ながら3Rに[[公開スパーリング]]で痛めていた左肩を負傷、左手が上がらないまま戦い続けるも10R以降はダウン寸前に陥るほど一方的に攻められ、15R判定負け。またも初防衛に失敗した<ref name="JapanProBoxingHistory" />。なお、試合後に右拳も骨折していたことが判明した。この試合は当時トレーナーであったエディ・タウンゼントが「タオルを投げることも考えたが、海老原が拒み続けたので投げられなかった。僕の中で観ていて一番辛い試合だった」と後に語っている。
* [[1970年]]1月、[[引退]]。