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[[スペイン]]の[[グラナダ]]で生まれ、1492年の[[レコンキスタ]]によるグラナダ陥落後、[[モロッコ]]の[[フェズ]]に移り叔父から教育を受け17歳で伴われて[[ソンガイ帝国]]を訪れた。数年後、再びこの地を訪れ[[エジプト]]まで旅をした。1518年ごろトルコ旅行の帰途,[[シチリア]]の[[海賊]]に捕えられ,[[ローマ]]に送られ教皇レオ10世に仕えるようになり、キリスト教に改宗した。しかし教皇の死後は[[チュニジア]]に行き、再びイスラム教徒に戻ったといわれるが,晩年は謎が多い。
 
16世紀初め[[サハラ]]の南を含む[[北アフリカ]]全域を旅し、その見聞を
彼の口述筆記による見聞録『海と陸の旅(航海と旅について)』が1550年に[[ヴェネツィア]]で(イタリア語)出版されて反響を呼び、後に『アフリカ誌』と改題されて1556年フランス語とラテン語に、1600年に英語に翻訳され出版され間有名だる。16世紀末までにほぼヨーロッパ全域で読まれるようになり、ヨーロッパにおいて黄金の国マリの風評が再生産されていき、[[トンブクトゥ]]を黄金郷とする伝説がつくり出され、その伝説は19世紀まで存続するほどであった。この全9巻よりなる大著『アフリカ誌』は長いあいだ,当時ヨーロッパ人がイスラム世界アフリカを知るための最も貴重な手掛りであった。
 
==参考文献==
*『サハラが結ぶ南北交流』私市政年 山川出版社 2004年6月15日
 
== 関連文献 ==