「里見実堯」の版間の差分

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系譜上は、第2代[[里見成義]]の次男で兄である[[里見義通|義通]]の死後に[[家督]]を継いだとも甥・[[里見義豊|義豊]]の陣代(後見人)であったとされたが、近年では実堯の嫡男・[[里見義堯|義堯]]の家督相続を正当化するための作為による虚構と考えられている。また、兄・義通とともに安房里見氏初代・[[里見義実|義実]]の子であったと推定される。
 
義通の命を受けて[[上総国]]へ進出して[[安房正木氏|正木氏]]はじめとする[[房総半島]]の[[水軍]]を手中に収めた。また、次の義豊の代にはその命を受けて[[鎌倉]]や[[武蔵国|武蔵]][[品川 (東京都)|品川]]を攻撃して[[後北条氏]]と戦っている。だが、次第に家中における発言力を増して義豊の地位を脅かす存在となり、また後北条氏と通じているとの風評が流れるに至った。このため天文2年、義豊は機先を制する形で実堯とその腹心の[[正木通綱]]を[[稲村城]]に呼んでこれを殺害した。これを[[稲村の変]](天文の内訌)という。これをきっかけに実堯の嫡男・義堯を押し立てた上総の里見氏勢力が叛旗を翻し、翌年には義堯が義豊を殺害して家督を奪った。
 
古くは義通が若くして死亡して義豊が幼かったために義豊成人までの間だけ実堯が家督を預かっていたのを成長した義豊が無分別にもこれを逆恨みして叔父を殺害したとされていた。しかし、近年では義通は長命を保って成人した義豊に家督を譲って隠居したと考えられており、義豊も稲村の変当時には既に壮年であったと考えられている。このため、こうした旧説は義堯の家督継承後に実堯系の家督継承の正当性を強調するために創作された話であると考えられており、今日では里見氏当主としては勿論、義豊の陣代であったとする見方も否定されている。