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[[衆議院議員]](6期)、[[郵政大臣]]([[宮沢内閣|第54代]])、改革クラブ(新党改革の前身)代表などを歴任。
 
== 概要来歴・人物 ==
[[新潟県]][[栃尾市]](現・[[長岡市]])出身。[[東京都立目黒高等学校]]、[[拓殖大学]][[政治経済学部|政経学部]]卒業。[[中曽根康弘]]の秘書を経て、[[1976年]](昭和51年)の[[第34回衆議院議員総選挙]]に、[[新潟県第3区 (中選挙区)|旧新潟県第3区]]から出馬し初当選(当選同期に[[愛知和男]]・[[鳩山邦夫]]・[[中村喜四郎]]・[[西田司]]・[[中島衛]]・[[池田行彦]]・[[堀内光雄]]・[[相澤英之]]・[[津島雄二]]・[[鹿野道彦]]・[[塚原俊平]]・[[中西啓介]]・[[与謝野馨]]・[[中川秀直]]・[[甘利正]]など)。[[内閣官房副長官]]、[[郵政大臣]]などを歴任。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]時代は中曽根、[[藤波孝生]]の側近だった。
 
[[1993年]](平成5年)の総選挙では新党ブームのあおりを受けて落選。[[1996年]](平成8年)の選挙には無所属で出馬するも、再び落選。その後、自民党を離党し、翌[[1997年]](平成9年)に[[新進党]]入党した。
 
[[1998年]](平成10年)、[[第18回参議院議員通常選挙]]に[[自由党_(日本_1998-2003)|自由党]]公認で出馬し、比例名簿4位ながらも当選、参議院議員に鞍替えした。自由党では[[小沢一郎]]の側近として選挙対策・[[民主党_(日本 1998-)|民主党]]との合流問題に取り組む。また、[[民由合併]]のモデルとも言われる[[新潟方式]]にも参画している。
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[[2007年]](平成19年)[[5月14日]]の参議院本会議で、[[国民投票法案]]の[[与党]]案採決(ボタン投票)に際し、党議拘束に造反、賛成にまわる。翌日党として[[郡司彰]]参院国対委員長から、厳重注意処分が下された。
 
[[2007年]](平成19年)[[7月29日]] に投開票が行われた第21回参議院選挙で、渡辺は新潟選挙区において自由党出身の[[森裕子]]ではなく[[黒岩宇洋]]を支援した。「'''全身全霊(政治生命)をかけて支援する'''」と明言したが結果は小沢や[[田中真紀子]]の支援を得た森は当選したものの、黒岩は落選した。
 
この結果、渡辺の党内における求心力は急速に低下し、参院選後に反小沢のグループを集結し自民党と連携する構想は頓挫したと言われる(渡辺自身は選挙後、「離党するとは一言も言っていない」と構想そのものを否定した)。
 
[[2008年]](平成20年)[[4月9日]]の日本銀行副総裁[[国会同意人事|人事]]でも党方針に反して[[大江康弘]]と共に政府提案に賛成票を投じた。しかし、自由党と[[保守新党|保守党]]との分裂時に自由党に残ったこと、民由合併の際に民主党への合流に躊躇する[[西村眞悟]]や[[藤島正之]]を説得していることや、新潟における[[社会民主党 (日本 1996-)|社民]]・[[日本労働組合総連合会|連合]]との連携を強化していることから、他の政策対応から保守的とは分類できるものの必ずしも親自民とは言えなかった。
 
=== 改革クラブから新党改革へ===
[[2008年]](平成20年)[[8月28日]]に民主党を離党すると発表。改革クラブを結成、代表就任。[[2010年]](平成22年)[[4月23日]]に改革クラブは党名を[[新党改革]]に変更し、自身は最高顧問に就任した。[[2010年]](平成22年)7月の[[第22回参議院議員通常選挙]]ヘは出馬せず、事実上、政界引退とみられる
 
2010年(平成22年)秋の叙勲において[[旭日大綬章]]を受章。[[2012年]](平成24年)3月、日本ミャンマー協会の会長に就任。
=== 現在 ===
[[2010年]](平成22年)秋の叙勲において[[旭日大綬章]]を受章。
[[2012年]](平成24年)3月、日本ミャンマー協会の会長に就任。
 
== 関連項目 ==
*[[菊田真紀子]](一時期渡辺と盟友関係にあった)
* [[中曽根康弘]]
 
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{{DEFAULTSORT:わたなへ ひてお}}
[[Category:日本の閣僚経験者]]
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[[Category:1934年生]]
[[Category:存命人物]]
 
[[en:Hideo Watanabe]]
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