「王政復古 (日本)」の版間の差分

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政変前夜、岩倉は自邸に[[薩摩藩|薩摩]]・[[土佐藩|土佐]]・[[安芸藩|安芸]]・[[尾張藩|尾張]]・[[越前藩|越前]]各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言、協力を求めた。また、二条摂政によって翌日朝にかけて行われた朝議では、[[毛利敬親]]・[[毛利定広|定広]]父子の[[官位]]復旧と入京の許可、岩倉ら[[勅勘]]の[[堂上家|堂上]]公卿の蟄居赦免と[[還俗]]、九州にある[[三条実美]]ら五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。
 
こうして、五藩の軍事力を背景とした政変が実行に移されることとなるが、政変参加者の間において、新政府からの徳川家の排除が固まっていた訳ではない。越前藩・尾張藩ら公議政体派は徳川家をあくまで諸の列に下すことを目標として政変に参加しており、[[親藩]]である両藩の周旋により年末には徳川慶喜の[[議定]]就任が取り沙汰されるに至っている。
 
また、大久保らは政変にあたって、大政奉還自体に反発していた[[会津藩]]らとの武力衝突は不可避とみたが、[[二条城]]の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は政変3日前の12月6日に越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出なかった<ref>家近2004、pp.203-205。</ref>。兵力の行使は新政府を樹立させる政変に際し、付随して起こることが予想された不測の事態に対処するためのものであり、徳川家を滅ぼすためのものではなかった<ref>青山2011、p.248。</ref>。