「タウンゼンド諸法」の版間の差分

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本国政府は、印紙法が反対された理由を誤解した結果、植民地は「対外税」であれば許容すると思い込んだ。だが植民地が「対内税」に反対したのは「対外税」ならば受け入れるということを意味するものではない。植民地のスタンスは、本国議会の決による歳入増を目的とする課税は、いかなるものであれ違憲であるというものだった<ref name="Reid33+" />。歴史研究者ジョン・フィリップ・レイドは、「タウンゼンドは、アメリカは対内税は違憲で対外税は合憲とみなしていると誤信していた。この誤信は、独立へと連なる歴史展開においてきわめて重大なものであった」と書き述べた<ref>Reid, ''Authority to Tax'', 33.</ref>。歳入法は1767年6月29日に[[勅許]]を得た<ref name="Thomas31">Thomas, ''Duties Crisis'', 31.</ref>。このとき、本国議会ではほとんど異論が出なかった。「歴史を大きく揺るがした法律が、これほど平穏無事に通過したのは他に類をみない」と、歴史研究者のピーター・トーマスは書いている<ref name="Thomas31" />。
 
歳入法とあわせて成立したのが1767年の補償法である<ref>7 Geo. III ch. 56; Labaree, ''Tea Party'', 269n20. 1767年の茶法ともいう; Jensen, ''Founding'', 435.</ref>。その狙いは[[イギリス東インド会社|東インド会社]]の茶に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]から密輸入される茶に対抗しうる競争力を持たせることだった<ref>Dickerson, ''Navigation Acts'', 196.</ref>。この法律により、イギリス本土への輸入関税は撤廃され、植民地への輸出価格を下げることができるようになった。削減された税収入は、歳入法による植民地への課税によって一部補償されることになっていた<ref>Labaree, ''Tea Party'', 21.</ref>。
 
タウンゼンド関税に謳われたそもそもの目的は、北米駐屯軍の支出をまかなうために歳入を増やすことだった<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 22–23.</ref>。しかし、タウンゼンドはその目的を改め、税収を植民地総督と判事の俸給を支払うために用いることにした<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 23–25.</ref>。総督や判事の俸給は、それまでは植民地議会から支払われていたが、本国議会は植民地から「[[金の力]]」<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 260.</ref>を取り上げようと期した。歴史研究者のジョン・C・ミラーによれば、「辣腕にもタウンゼンドは、税法の整備によってアメリカから資金を取り上げ、それを財源として植民地総督や判事の地位を各植民地議会から独立させることによって、アメリカの自立に対抗した」<ref>Miller, ''Origins'', 255.</ref>のである。