「グスタフ・ホルン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Mew-mew (会話 | 投稿記録)
Yakouhai (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
7行目:
[[1632年]]、[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]でグスタフ・アドルフが戦死すると、[[アクセル・オクセンシェルナ]]によってホルンはスウェーデン軍の指揮を任された。しかし、同僚の[[ザクセン・ワイマール公ベルンハルト]]と意見が合わず、両者は何度か対立した。[[1634年]][[9月6日]]、[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]では、この両者の対立が敗因の一つとなった。この戦いで、スウェーデン軍は壊滅的な打撃を被り、ホルンは皇帝軍に捕らえられた。ホルンが捕虜交換で解放されたのはようやく[[1642年]]のことであった。
 
ホルンは、スウェーデンに帰国したものの、直ぐに戦争に招聘された。相手は[[デンマーク]]である。この戦争は、デンマーク側から[[トルシュテンソン戦争]]と呼ばれている。[[1645年]]、ホルンは大陸側のスウェから侵攻する[[レンナト・トルステソン]]と呼応して[[スコーネ]]に侵攻した。そしてそのまま三十年戦争に復帰し、[[ボヘミア]]の[[プラハ]]で終戦を迎えた。
 
その後、ホルンは[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]、[[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]に仕え、スウェーデン宮廷で重きを成した。[[1652年]]に[[リヴォニア]][[総督]]となり、[[1654年]]には王国[[元帥]]となった。[[1657年]][[5月10日]]、ホルンは[[スカラ]]で亡くなった。