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'''ワジム・ヴィクトロヴィッチ・バカーチン'''('''{{lang|ru|Вадим Викторович Бакатин}}'''、'''Vadim Viktorovich Bakatin'''、[[1937年]][[11月6日]]~ )は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]。最後のKGB([[ソ連国家保安委員会]])議長。[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]時代穏健改革派としてゴルバチョフを支えた。
 
== 来歴・人物 ==
1937年11月6日[[シベリア]]の[[ケメロヴォ州]]に生まれる。ノヴォシビルスク建築技術大学卒。1960年から建設企業に勤務し、主任技師、監督などを務める。この間[[1964年]][[ソ連共産党]]に入党する。[[1971年]]住宅建設企業合同主任技師となる。<br>[[1973年]]地元のケメロヴォ市共産党第二書記に選出されたことを皮切りに、[[1977年]]ケメロヴォ州党書記、[[1985年]]ソ連共産党中央監査委員、[[キーロフ州]]党第一書記を経て、[[1986年]]党中央委員に選出された。[[1987年]]ケメロヴォ州党第一書記となる。
 
[[1973年]]地元のケメロヴォ市共産党第二書記に選出されたことを皮切りに、[[1977年]]ケメロヴォ州党書記、[[1985年]]ソ連共産党中央監査委員、[[キーロフ州]]党第一書記を経て、[[1986年]]党中央委員に選出された。[[1987年]]ケメロヴォ州党第一書記となる。<br>
[[1988年]]ゴルバチョフによって[[内務大臣]]に任命される。穏健改革派としてゴルバチョフの路線に従いソ連国内で先鋭化してきた[[民族問題]]に当たるが、より強硬な手段でソビエト体制を維持すべきと主張する保守派からの突き上げを喰らい、ゴルバチョフが保守派に譲歩する中で[[1990年]]内相を辞任。後任の内相に就任したのは保守派として名高いラトビア党第一書記の[[ボリス・プーゴ]]であり、第一次官には[[アフガニスタン戦争]]の英雄でこれも保守派の[[ボリス・グロモフ]]将軍であった。同年8月新設された大統領評議会メンバーに選ばれる。[[1991年]]ロシア共和国大統領選挙では、[[ボリス・エリツィン]]の当選を嫌ったゴルバチョフの命を受け立候補するが、エリツィン、[[ニコライ・ルイシコフ]]元首相らの有力候補はおろか、当時泡沫候補扱いされた[[ウラジーミル・ジリノフスキー]]にも敗北し立候補者5人中、得票率わずか5パーセントと最低であった。<br>
 
[[1991年]]8月保守派の[[ソ連8月クーデター]]が失敗すると国家非常事態委員会のメンバーとして、クーデターの中心であった[[ウラジーミル・クリュチコフ]]に代わり最後のKGB議長に就任し、KGBを解体した。バカーチンはクーデター後もゴルバチョフを支え続けたひとりであった。