「エドマンド・マスキー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: ar:إدموند موسكي
追加
63行目:
'''エドマンド・シクストウス・「エド」マスキー'''('''Edmund Sixtus "Ed" Muskie''' エドムント・マルチシェフスキ Edmund Marciszewski), [[1914年]][[3月28日]] - [[1996年]][[3月26日]])は、[[アメリカ合衆国]]の政治家。[[メイン州]]選出上院議員および[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を務めた。彼は上院における最初の環境保護論者として有名である。
 
== 人物 ==
マスキーはメイン州[[ランフォード (メイン州)|ランフォード]]で[[ポーランド]]からのカトリック移民の息子として生まれた。1936年に[[ベイツ大学]]を卒業し、1939年には[[コーネル大学]]法律学校を卒業した。[[第二次世界大戦]]中には[[アメリカ合衆国海軍|アメリカ海軍]]に入隊した。
 
69 ⟶ 70行目:
彼はメイン州議会議員を務めた後1954年にメイン州知事に選出され、1958年には共和党の現職フレッド・ペインを破って上院議員当選した。その後1964年、1970年、1976年に再選され、1980年5月7日に国務長官就任のため辞任するまで上院議員職を務めた。彼は[[サイラス・ヴァンス]]の辞職に伴う後任長官として、[[ジミー・カーター]]政権において1980年から1981年まで同職を務めた。
 
上院議員時代には大気汚染防止法を提出し、同法案は[[マスキー法]]として知られた。1970年にCARB([[:en:California Air Resources Board|California Air Resource Board]])によって制定されようとしたが、1974年に廃案となった。自動車の排気ガス量を10分の1に削減するという法案で、この法案の提出、制定の動きは[[日本]]の自動車業界にも大きな影響を与え、その後自動車開発における環境保護の重要性が認識されるようになった。
 
マスキーは1968年の大統領選挙に於いて民主党の[[副大統領]]候補であった。1972年の大統領選挙では民主党の[[大統領]]候補として考えられていた。しかし[[ベトナム戦争|ベトナム]]反戦を正面に掲げた[[サウスダコタ州]]選出の上院議員[[ジョージ・マクガバン]]候補にモメンタムを奪われ、[[アイオワ州]]の党員集会と[[ニューハンプシャー州]]での予備選挙では小差で勝利したものの、その後の各州での予備選では振るわず、結局民主党の指名はマクガバンに敗れた。保守的な新聞が夫人のジェーンの喫煙などを批判し、マスキーが涙を流したことが敗北の原因と考えられているが、マスキーは後に屋外でのコメントだったため解けた雪が涙のように見えたのだと主張した(これ以降「大統領を目指す者は公の場で決して涙を見せてはならない」というのが選挙戦の不文律となった)。マスキーが大統領候補に指名されていたならば[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]を破ることができたのではないかと考える者もいる。
117 ⟶ 118行目:
{{DEFAULTSORT:ますきいえとむんと}}
[[Category:アメリカ合衆国国務長官]]
[[Category:メイン州選出のアメリカ合衆国上院議員]]
[[Category:メイン州知事]]
[[Category:メイン州の人物]]
[[Category:ポーランド系アメリカ人]]