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'''永井 直敬'''(ながい なおひろ)は、[[江戸時代]]中期の[[譜代大名]]。[[下野国|下野]][[烏山藩]]主、[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]主、[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]主、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]初代藩主。尚庸系永井家2代。
 
== 経歴 ==
寛文4年(1664年)、[[永井尚庸]]の次男として生まれる。[[延宝]]5年([[1677年]])、父の死去により跡を継ぎ、同年閏12月26日に従五位下、[[伊賀国|伊賀]]守に叙任する。[[貞享]]4年([[1687年]])、[[那須氏]]が改易されたため、代わって[[河内国]]内に所領を持っていた直敬が[[下野国|下野]][[烏山藩]]主として転封される。[[元禄]]7年([[1694年]])11月15日に[[寺社奉行]]となり、後に[[奏者番]]も兼任する。
 
元禄14年([[1701年]])9月1日、[[浅野長矩]]が改易された後を受けて、30003,000石加増の3万30003,000石で[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]主となる。しかし寺社奉行として幕政に参与していたことから、藩政は家臣団によって行なわれた。[[宝永]]元年([[1704年]])10月1日には[[若年寄]]となる。宝永2年([[1705年]])、赤穂藩で大洪水が発生して40004,000石を失う大被害を受けた。同年9月22日に伊豆守に叙任する。
 
宝永3年([[1706年]])1月28日に[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]に移封される。宝永8年([[1711年]])2月11日に[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]に移封されるが、正徳元年(1711年)6月3日、岩槻にて死去した。享年48。跡を次男の[[永井尚平|尚平]]が継いだ。
 
{{先代次代|[[河内国]]内|1677年 - 1687年|[[永井尚庸]]|―}}