「ポツダム」の版間の差分

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その後、街は[[ホーエンツォレルン家|プロシア王家]]の居住地となった。王家の壮大な建造物は、[[18世紀]]半ば、主に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、[[庭園]]と[[ロココ様式]]の内装で有名な[[サンスーシー宮殿]]である。他には、[[:en:New Palace (Potsdam)|新宮殿]]や[[:en:Orangery Palace|オランジェリー宮殿]]がある。
戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地の{{仮リンク|衛戍教会 (ポツダム)|de|Garnisonkirche (Potsdam)|label=衛戍教会}}で開会され、この日は[[ナチス・ドイツ]]時代の始まりを象徴する日として「{{仮リンク|ポツダムの日|de|Tag von Potsdam}}」と呼ばれる。
[[1945年]]、4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた({{仮リンク|ポツダム空襲|de|Luftangriff auf Potsdam}})。[[第二次世界大戦]]においてドイツが降伏した後、この都市の[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]で[[アメリカ合衆国|米]]、[[ソビエト連邦|ソ]]、[[イギリス|英]]の3首脳が集まり、ドイツの戦後処理と[[大日本帝国|日本]]の全面降伏を討議する[[ポツダム会談]]が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定する[[ポツダム協定]]が成立し、また会議日程中には[[大日本帝国|日本]]に対する降伏要求である[[ポツダム宣言]]が発された。その後日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしばポツダムが使用される([[ポツダム命令]]、[[ポツダム少尉|ポツダム進級]])。
 
[[1991年]]に[[ポツダム大学]]が創立された。