「諏訪頼満 (安芸守)」の版間の差分

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諏訪政満の次男<ref name="戦国人名事典440">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P440</ref>。
 
文明15年([[1483年]])[[1月8日_(旧暦)|1月8日]]、一族の[[諏訪継満]](大祝家)・[[金刺興春]](諏訪下社[[金刺氏]])・[[高遠継宗]](高遠氏)の反乱(文明の内訌)によって父政満と兄の宮若丸を殺されたため10歳で家督を相続した<ref name="戦国人名事典440">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P440</ref>。成長して[[永正]]15年([[1518年]])に金刺興春の子・[[金刺昌春|昌春]]を萩倉要害に攻めて<ref name="戦国人名事典440">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P440</ref>[[甲斐国|甲斐]]に追放し、高遠継宗の子・[[高遠頼継|頼継]]を降伏させて[[諏訪郡|諏訪地方]]一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の[[武田信虎]]とも戦う。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川([[長野県]][[諏訪郡]][[富士見町]])において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、「諏訪氏中興の祖」と言われた。
 
[[享禄]]3年([[1530年]])[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]、嫡男[[諏訪頼隆|頼隆]]が頼満に先立って31歳で急死、天文3年には嫡孫の[[諏訪頼重 (戦国時代)|頼重]]に家督を譲って[[出家]]して碧雲斎と名乗る。享禄4年(1531年)には甲斐の国人領主らを後援した河原辺合戦([[山梨県]][[韮崎市]])で敗退しており、天文4年(1535年)には信虎と和睦する<ref name="戦国人名事典440">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P440</ref>。信虎の娘を頼重に娶わせてともに[[小笠原長棟]]を攻めた。
 
天文8年([[1539年]])11月、[[背中]]に出来た[[腫瘍]]の悪化によって67歳で病死した<ref name="戦国人名事典440">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P440</ref>。
 
== 脚注 ==