「ジョージ・マクレラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Sonchou (会話 | 投稿記録)
m 仮リンク微修正。
Xanthines (会話 | 投稿記録)
58行目:
[[1862年]]の[[半島方面作戦|半島戦役]]でマクレランは、当初は[[ジョセフ・ジョンストン]]、次いで彼と交代したリー将軍と戦い、[[七日間の戦い]]でリーの軍に自軍より多くの損害を与えることに成功した。そして首都要塞攻略が可能なほど戦力差がないことを冷静に判断し<ref>戦争末期[[ユリシーズ・グラント|グラント]]は2倍もの兵力で首都要塞を攻撃して結局攻め落とせなかったが、この時のマクレランは3割程度しか優越していなかった。</ref>、[[アメリカ連合国|連合国]]首都の[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]を占領せよというリンカーンからの無謀な要請を放棄して軍を引き揚げた。リーの北部侵攻によって起こった凄惨な[[アンティータムの戦い]]での彼の活躍は、リーによるメリーランドへの侵略を阻止したが、兵力の不利を有利な地形でカバーするリー相手には、同程度の損害を与えただけで[[北バージニア軍]]を壊滅させることまではできなかった。ただ、これはリーと戦った北軍の将軍たちが、常に兵力で勝っていたにも関わらず、繰り返し敗れていたことからすれば(彼の[[ユリシーズ・グラント|グラント]]でさえ倍近い兵力でリーに当ったにもかかわらず、幾度も敗れている)、驚異的な勝利である。さらに、政治的には、アンティータムの勝利は[[エイブラハム・リンカーン]]の[[奴隷解放宣言]]を表に出す絶好のタイミングを与えた(負け続けの状態だと奴隷解放宣言は苦し紛れの策、ひいては北部は劣勢だと内外に思われる危険があるため、どうしても勝った後に宣言を出す必要があった)。しかし結果として、戦闘中のマクレランのリーダーシップは、リンカーン合衆国大統領に疑問視されたため、最終的にマクレランはまず最高司令官を解任され、次にポトマック軍の指揮官職から解任された。リンカーンはマクレランについて「彼は自分自身と戦うことができないなら、他の者を戦わせる準備を行うのに優れている」<ref name=Tried122>McPherson, ''Tried by War'', p. 122.</ref>と語った。にもかかわらず、彼はポトマック軍の中でも最も人気のある司令官であった。
 
マクレランはリンカーンの信頼を維持することにも失敗し、苛立たしいほどに最高司令官に服従しなくなった。解任された後、マクレランは[[1864年]]アメリカ合衆国大統領選挙|1864年の大統領選挙]]でリンカーンと争う[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の指名候補になって、敗れた。民主党は戦争の終結と連合国との交渉を公約した反戦の政治要項を掲げたが、マクレランは彼の戦役の有効性へダメージがあるとしてこれを否定せざるを得なかった。
 
== 戦後 ==