「安井道頓」の版間の差分

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'''安井道頓'''(やすい どうとん、[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]]) - [[元和]]元年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]([[1615年]][[6月4日]]))は、[[道頓堀]]の開鑿者。
 
安井成安(やすい なりやす)、通称、市右衛門。剃髪後「道頓」と名のる。本姓は坂上(さかのうえ)
 
安井氏は河内守護の[[畠山氏]]一族と言われ、河内・渋川郡を領有し[[渋川氏]]を名乗っていたが、後に播磨の安井に移封され、安井氏を名乗ったのが始まり
[[1582年]]ごろ、[[豊臣秀吉]]から[[大坂城]]壕を掘鑿した功労に対する賞として城南の地を拝領した。[[1612年]]、城南の開発のため豊臣家の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。堀鑿中の[[1615年]]、[[大坂の役|大坂夏の陣]]に豊臣方として入城、大坂城中で討死した。弟達が跡を継ぎ、同年11月に完成させた。
 
[[河内国]][[渋川郡]][[久宝寺]]村の国人領主の出身で、父の[[安井定次]]とともに[[豊臣秀吉]]に仕え、出家して道頓と名乗った。
安井氏は河内守護の[[畠山氏]]一族と言われ、河内・渋川郡を領有し[[渋川氏]]を名乗っていたが、後に播磨の安井に移封され、安井氏を名乗る。
 
[[1582年]]ごろ、[[豊臣秀吉]]から[[大坂城]]の外壕を掘鑿した功労および[[猫間川]]河岸整備に対する賞として城南の地を拝領した。[[1612年]]、城南の開発には河川堀鑿が必要と考え道頓は豊臣家の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。堀鑿中の[[1615年]]、[[大坂の役|大坂夏の陣]]に巻き込まれ、豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼に味して入城、大坂城で討死した。水路の堀鑿は、道頓の死後、[[松平忠明]]の許可を受けて道頓の従兄の[[安井道卜]]や一族の[[平野藤次]]らが跡を継ぎ、同年11月に完成させた。
なお、道頓は、[[安井定次]]の子とされてきたが、安井氏の出身ではなく、[[平野区|平野]]の[[坂上広野]]一族の[[平野氏]]七名家の一つの[[成安氏]]出身の'''成安道頓'''(なりやす どうどん)が正しいとされる。安井道卜の子孫が道頓堀川河川敷の所有権を市と争った「[[道頓堀#道頓堀裁判|道頓堀裁判]]」の大阪地裁判決文([[1976年]])では、「当裁判所がいずれかに認定すべき必要はなく、(中略)史家の研究に待つべきものである」と断った上で、この成安説と安井説を比較し「道頓の姓が安井氏であることについては多分に疑問があるといわなければならない」と述べている。
 
なお、道頓は、[[安井定次]]の子とされてきたが、安井氏の出身ではなく、[[平野区|平野]]の[[成安氏]]出身の'''成安道頓'''(なりやす どうどん)ではないかとする見解もある。