「ジョージ・ベスト」の版間の差分

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また、宗教的観点からベストの果たした功績について言及するものもいる。ベストは北アイルランド出身でプロテスタント系の出自であったが、自身は宗派に固執せず、無頓着な態度を示していた{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=243}}。アラン・ベアナーはこうした態度がカトリック色の強かったマンチェスター・ユナイテッドにおいてカトリック系住民とプロテスタント系住民の対立を止揚し、エキュメニカルな働きをしたと指摘している{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=243}}<ref>Alan Bairner『The Ulster Boys』pp.3-5,10-12</ref>。
 
当時欧州最強の異名をとっていたベンフィカ・リスボンが欧州カップ戦においてマンチェスター・ユナイテッドと対峙した19961966年3月9日、19歳のベストは2得点を挙げ、欧州にその名を知らしめた{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=112}}。ポルトガルのスポーツ紙『ア・ボーラ』が「エル・ビートル」と呼びその活躍を取り上げると、サッカーそのものに関心が無い少女たちからもポップスター並にアイドル視されるようになる{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|pp=113-114}}<ref>[http://www.soccertalk.jp/content/2005/11/no583.html 大住良之:サッカーの話をしよう-No.583 追悼ジョージベスト]</ref>。これは1960年代半ばのサッカー選手には前例の無い特異な現象であり{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=114}}、ベストは自伝『恵まれし者』で「人々は私についてあらゆることを知りたがった。サッカー観ばかりでなく、服や音楽の好みや、行きつけのクラブなども。突然私のやることなすことすべてが、ヒップでクールだということになった」と述べており{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=114}}、こうした現象について「私はひとつのアイコンになったのだと思う」と回顧している{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=115}}。一挙手一投足を注目されるようになったベストは女性関係や夜遊びなどのスキャンダルについても頻繁に報道されるようになり、それがストレスとなってさらに酒を浴びるように飲み、アルコール依存症へと陥ってしまうなどの一面もあった{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=231}}。こうした経緯もあってベストの妹、バーバラ・マクナリーは夫のノーマンとともに2006年に「ジョージ・ベスト基金」を立ち上げ、アルコール依存症患者に対する救済やアルコールに関わる医学研究への支援を行うことを表明した{{Sfn|『ジョージ・ベストがいた』|2010|p=246}}。
 
==個人成績==