「クイックモーション」の版間の差分

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野村は最終的に「二盗をアウトにするためには投手の投げるモーションにかかる時間を短くする方法以外に手はない」という結論に達し、投球動作を素早くするクイックモーションを考案する。この提案は投手陣に当初は受け入れ難かったが次第に受け入れられていき、クイックモーションを更に進化させて足をほとんど上げずに投げる「すり足クイック」も考案した。
 
1973年にクイックモーションを多用した南海がリーグ優勝を果たしたことで、クイックモーションは他チームにも広まり盗塁を封じる投法として不可欠なものとなった。クイックモーションが浸透する以前は「盗塁を許したら捕手の責任」と言われていたが、これ以降「盗塁を刺すのは投手と捕手の共同作業」というのが一般的な見解となった。
 
パリーグ全体の盗塁数はこの時期をピークに減少しており、1973年の南海の優勝に一定の貢献をしたと思われるが、福本本人に関しては1972年106盗塁25盗塁死、1973年は95盗塁16盗塁死、1974年94盗塁23盗塁死を記録。むしろクイックモーションが浸透した時期と全盛時が一致しており、盗塁成功率も8割超の成功率を最晩年まで維持し当時の盗塁世界記録を樹立と、ひとり別次元の能力を発揮している。
クイックモーションが浸透する以前は「盗塁を許したら捕手の責任」と言われていたが、これ以降「盗塁を刺すのは投手と捕手の共同作業」というのが一般的な見解となった。
 
== 脚注 ==
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