「天津敏」の版間の差分

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→‎来歴: テレビ出演後に「映画をやりたい」と言ったとの記述について、信憑性に欠けるため、修正しました。
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== 来歴 ==
両親及び兄弟はすべて教員という一家に育つ。[[宮城師範学校|宮城県師範学校]]を卒業後、教職に就く。戦時中は海軍で少年水兵の教官の職にあった。[[1944年]]にかね子夫人と結婚。天都性となる。戦後は教職から離れ、鎌倉の夫人の実家の工場を手伝い、水道工事などの仕事をしていた。[[1953年]]、[[鎌倉]]に居を構え、32歳にして[[東宝]]のニューフェースとして映画界入り。[[東京映画]]制作の作品に出演。その後[[1955年]]に[[TBSテレビ|TBS]]のオーディションに合格。当時テレビ黎明期の生放送時代劇に出演し始める。[[1959年]]、『[[豹の眼]]』を皮切りに、[[宣弘社]]のテレビ作品でレギュラーの悪役として起用され、役名の付かない端役俳優から悪役俳優へと転身する。[[19651963年]]、[[忍者]]ブームを巻き起こした『[[隠密剣士]]』での風魔小太郎役で出演。人気悪役俳優となる。この時4342歳。[[1964年]]、初の東映作品出演となった『忍者狩り』(主演:[[近衛十四郎]]、監督:[[山内鉄也]])で演じた「闇の蔵人」役での演技が映画版『隠密剣士』のプロデューサーだった[[東映]]の[[俊藤浩滋]]、映画監督の[[マキノ雅弘]]の眼に止まり、後藤がこの当時手がけ始めた[[ヤクザ映画|任侠映画]]に天津を起用、以後、敵役の常連として欠くことのできない存在となり、時代劇作品でもその圧倒的な存在感で悪役スターとして人気を確かなものとする。<br />しかし[[1979年]]6月、[[脳内出血]]に倒れ、[[7月24日]]、心不全で死去。{{没年齢|1921|2|16|1979|7|24}}。[[1981年の映画|1981年]]に[[欧米]]で封切り公開された映画『[[武士道ブレード]]』が遺作となった。
 
== 人物 ==