「馮玉祥」の版間の差分

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同年10月、曹錕が賄選により大総統に選出されたことには馮玉祥も内心で反発し、さらに孫文が派遣してきた[[徐謙]]・[[黄郛]]らの説得もあり、曹と呉佩孚の討伐を決心する。このとき馮は、かつて武学研究会で同志だった第15旅旅長兼大名鎮守使の孫岳とも連絡をとり、密約を結んだ。さらに孫岳がかねてからの盟友である第24師師長[[胡景翼]]を馮に引き合わせて仲間とし、3人は蜂起の機会をうかがうことになる。
 
[[1924年]](民国13年)9月、第2次奉直戦争が勃発すると、呉佩孚が[[熱河省|熱河]]方面へ奉天派の迎撃に向かい、[[北京市|北京]]の防備が手薄となる。そして10月22日、馮玉祥はクーデターを決行して曹錕を捕縛し、さらに[[への待条件]]の廃止を宣言して、廃帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を紫禁城から追放した。これがいわゆる[[北京政変]](首都革命)である。24日、馮は[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]の結成を宣言し、自らは国民軍総司令兼第1軍軍長、胡景翼が副司令兼第2軍軍長、孫岳が副司令兼第3軍軍長となった。そして孫文に対して北京への北上と今後の協議を呼びかけ、孫文もこれに応じる。同時に奉天派の[[張作霖]]や失脚していた段祺瑞も招致し、11月24日、段が臨時執政に就任、新政権が始動した。
 
=== 五原誓師 ===