「勝沼信友」の版間の差分

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~が、~だがという日本語は美しくないため。日本語は正しく使いませう
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== 生涯 ==
武田氏の第17代当主・武田信縄の子として生まれる。[[永正]]4年([[1507年]])には父の信縄が死去し武田宗家は兄の信直(信虎)が継ぐ。初見史料は甲斐[[都留郡]]岩殿七社権現(山梨県[[大月市]])の[[棟札]]で「武田左衛門大夫信友」として見られるほか、石橋八幡神社の棟札にも名前が見られる。信直は郡内の有力[[国衆]]であった[[小山田氏]]を服従させている。その際、分立年代は不詳だが信友は小山田氏の備えとして東郡勝沼郷([[甲州市]][[勝沼町]])を領し「勝沼」姓を称しており、勝沼には戦国期の[[城館]]と伝わる[[勝沼氏館]]跡が残り、国の[[史跡]]に指定されている。
 
『[[勝山記]](妙法寺記)』天文4年(1535年)8月22日記事によれば、信虎が甲斐南部の河内領万沢口において[[駿河国]]の[[今川氏輝]]と争った際に、今川氏支援のため郡内へ侵攻した[[相模国]]の[[北条氏綱]]との[[山中湖]]畔における合戦で討死したという。