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「長宗我部兼序」の版間の差分
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2013年2月10日 (日) 10:51時点における版
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30行目:
通説によると、兼序は遂に自害して果て、兼序の遺児・千雄丸(後の[[長宗我部国親]])は戦場から落ち延びて[[一条房家]]を頼ったという。
しかし近年の研究によると、
ここで
兼序は自害せず
に
土佐国内に亡命し
ており
、永正8年([[1511年]])に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主
に
へ
復帰
し
、永正15年([[1518年]])頃に息子・国親へ家督を譲っ
た
ている
<ref>「歴史人」2012年10月№25 戦国武将の全国勢力変遷マップ(KKベストセラーズ)85頁</ref>。
== 脚注 ==