「ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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| 敬称2 =
| タイトル =第263代ローマ教皇
| 画像 = [[fileFile:Pope JohnIoannes PaulPaulus I, 1968.jpg|200px]]
| 画像説明 =
| 就任 = [[1978年]][[8月26日]]
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===聖職者===
[[1923年]]にフェルトレの神学校に入ったが、後にベッルーノ教区の[[神学校]]に移って学んだ。このころには[[イエズス会]]に入会しようとするが、神学校のジョスエ・カタロッシ(Giosuè Cattarossi)司教には、入会を認められなかった。[[1935年]][[7月7日]]にベッルーノの聖ピエトロ教会で司祭に[[叙階]]された。同神学校の教授などをへて[[1958年]]に[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]によってヴィットリオ・ヴェネトの[[司教]]に任命された。
 
[[File:Albino Luciani, 1964.jpg|thumb|200px|ヴィットリオ・ヴェネト司教時代(1964年)]]
司教に任命された後もサンマルチノにある粗末な古城に住み、質素な生活を続けた。なお、この司教時代におこなわれた[[第2バチカン公会議]]には、全会期を通じて参加した。
[[File:Albino Luciani, 1973.jpg|thumb|200px|ヴェネツィア総大司教時代(1973年)]]
ベッルーノ教区神学校の教授などをへて[[1958年]]に[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]によってヴィットリオ・ヴェネトの[[司教]]に任命された。司教に任命された後もサンマルチノにある粗末な古城に住み、質素な生活を続けた。なお、この司教時代におこなわれた[[第2バチカン公会議]]には、全会期を通じて参加した。
 
===総大司教===
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また、[[中南米]]や[[アフリカ]]諸国の聖職者をバチカンの要職につけた他、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、[[アルゼンチン]]で行われていた「[[汚い戦争]]」を進めていた[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]][[大統領]](上記の「ロッジP2」は同大統領を支援していた」)が戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。
 
[[File:Giovanni Paolo I e II.jpg|right|thumb|200px|[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|カロル・ユゼフ・ヴォイティワ枢機卿(のちのヨハネ・パウロ2世)]]とともに]]
しかし教義は保守的であり、論議を呼んだ[[回勅]]『[[フマーネ・ヴィテ]]』の立場を支持していたと言われている。教皇としてまず[[第2バチカン公会議]]の決議事項の実施促進を指示した。ただし、教皇就任以前にイタリアの貧しい労働者の生活の実態を知っていただけに、人工受胎調節([[避妊]])に関しては一定の理解を示し、『フマーネ・ヴィテ』には失望したという説もある。
 
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就任後間もなくバチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明し、実際に、かつてカトーリカ・デル・ベーネト銀行の売却で暗闘し、その後も「ロッジP2」の[[リーチオ・ジェッリ]]代表を含むメンバーや、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続けていただけでなく、贋造公債の発注が[[FBI]]の捜査対象になるなど、その言動が国際的にも問題視されていたマルチンクス総裁の更迭を決めていた。
 
また、マルチンクス総裁以外にも、ジャン=マリー・ヴィヨ国務長官をはじめとするバチカン銀行の汚職に関係するバチカン内部の関係者の更迭を死去直前に決定し、その更迭者リストの内容をめぐって様々な噂が流れていた。
 
===急逝===