「マハトマ・ガンディー」の版間の差分

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(アト (会話) による ID:46210351 の版を取り消しWikipedia:日本中心にならないようにに違反)
[[1939年]]9月に勃発した[[第二次世界大戦]]において、インド国民会議の[[スバス・チャンドラ・ボース]]や[[ラース・ビハーリー・ボース]]、[[A.M.ナイル]]は、[[アジア]]において、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げイギリスと対立した[[日本]]と緊密な関係を築くことで、イギリスに揺さぶりをかけようとした。しかしガンディーは、この様な動きに連携することはなく大きな動きを見せなかった。
 
ただし、日本軍が英米をはじめとする連合国軍を撃破し続け、インド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫った[[1942年]]初頭から[[1943年]]中盤の時期には、日本との連携を模索する姿勢を見せていたことが指摘されている<ref>[[#長崎1989|長崎 1989]]</ref>。実際に1942年には、日本軍のインドへの接近にあわてたイギリスが、インドをイギリス連邦内自治領として認めるとしたことでインド人の柔を狙おうとしたが、カンジーはこれを拒否し、民衆は「クイット・インディア」(インドから出ていけ)を掲げ、その結果2年間投獄されることとなった<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 105ページ</ref>。しかし同時にガンディーは「すべての日本人に」を発表し、強権的かつ人種差別を明確に掲げるドイツやイタリアと組み[[覇権主義]]的な行動を見せつつある日本の姿勢に対する疑問を明らかにした。
 
[[ファイル:Nehru Gandhi 1937 touchup.jpg|thumb|200px|インド初代首相となった[[ジャワハルラール・ネルー]](左)とガンディー]]
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