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このような革新の背景の一つと考えられているのが、当時行われていた「立ち会い能」と呼ばれる[[催し]]である。これは猿楽や田楽の座が互いに芸を競い、勝負を決するというもので、「立ち会い能」で勝ち上がることは座の[[世俗]]的な成功に直結していた。[[観世座]]における猿楽の革新も、この「立ち会い能」を勝ち上がるためという側面があった。
 
[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])、[[室町幕府]]の第3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]は、[[京都]]の今熊野<ref>読み方は「いまくまの」である。現在、この土地には新熊野神社<small>(いまくまのじんじゃ)</small>が鎮座する。</ref>において、観阿弥とその息子の[[世阿弥]]による猿楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座(観世座)を庇護した。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という[[観客]]を手に入れることとなった。また[[二条良基]]をはじめとする京都の[[公家]]社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは猿楽をさらに洗練していった。その後、第56代将軍[[足利義教]]も世阿弥の甥[[音阿弥]]を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、猿楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。
 
なお、[[室町時代|室町期]]に成立した[[大和猿楽]]の外山座<small>(とびざ)</small>・結崎座<small>(ゆうさきざ)</small>・坂戸座<small>(さかどざ)</small>・円満井座<small>(えんまいざ)</small>を大和四座<small>(やまとしざ)</small>と呼ぶ。それぞれ、後の[[宝生座]]・観世座・[[金剛座]]・[[金春座]]につながるとする説が有力である<ref>ただし、室町期から織豊期にかけては大和猿楽以外にも若狭猿楽、近江猿楽、加賀猿楽、伊勢猿楽、丹波猿楽など数多くの猿楽の流派があり、それぞれに座が存在していた。現在、観世流の職分家の中でも名家中の名家である梅若家は丹波猿楽の系統の一族である(梅若猶彦『能楽への招待』岩波書店、2003年、83ページ)</ref>。