「ヴォルグ・ザンギエフ」の版間の差分
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フルネームは、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ。[[ソビエト連邦|旧ソビエト連邦]]出身。生年月日は[[1972年]][[10月30日]]。身長168cm。リーチ173cm。血液型はO型。
現[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[スーパーフェザー級|ジュニアライト級]]チャンピオン
貧しい[[母子家庭]]に育ち、母親を守るために強くなろうと幼い頃にボクシングを始め、専属コーチであるルスラン・ラムダの下、アマチュア[[ボクシング]][[フェザー級]]世界チャンピオンに上り詰めた。アマチュアでは200戦以上の経験がある。
病気の母の治療費を稼ぐためにプロに転向し、ラムダと共に来日し音羽ジムと契約、期待の新人輸入ボクサーとして注目を浴びる。A級ボクサー賞金トーナメント決勝戦で[[幕之内一歩]]と対戦し、壮絶な打撃戦の末ガゼルパンチでKOされた。その後、[[伊達英二]]が返上した日本フェザー級王座決定戦に日本フェザー級2位として出場し、1位の[[千堂武士]]と対戦。終始優勢に試合を進めるも、バランスを崩してスリップした事がダウンとみなされ、これが要因となって[[ホームタウンディシジョン]]
それからしばらくボクシングの表舞台から遠ざかっていたが、最愛の母の死をきっかけに[[アメリカ合衆国]]でのカムバックを決意。一歩のつてを頼るべく単身再来日し、一歩の家で寝泊りしながら鴨川ジムで再起に向けたトレーニングを行った。[[鴨川源二|鴨川会長]]の口利きで出国が決定した後、[[沢村竜平]]戦を控えていた一歩のスパーリングパートナーとなり、置き土産にデンプシー破りを実践して一歩をKO、アメリカに活動拠点を移していた浜団吉のもとへ旅立っていった。
渡米後は階級を[[スーパーフェザー級|ジュニアライト級]]に上げ、数多の激戦を勝ち抜いて[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]・[[国際ボクシング連盟|IBF]]
== 人物 ==
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日本時代は観客を呼び込むためインファイターとして戦っており、その獰猛さに見合った力強いファイトスタイルを見せていた。しかし本来は、高度な戦略を駆使する優れた頭脳と、それを的確に実行できる正確無比なテクニックを併せ持つ万能型のボクサーファイターで、そのスタイルで戦っていたら当時の日本王者だった[[伊達英二]]ですら敗北していたかもしれないと[[鴨川源二|鴨川会長]]に評されている。実際に日本でのスパーリングで一歩と戦った際は、ブランクによって体力が切れるまでは圧倒的優勢に試合を運んでいた。
輸入ボクサーという立場から派手なインファイターとして戦わなければならない中、[[幕之内一歩]]と[[千堂武士]]という純血のインファイターと
ヴォルグとは、ロシア語で狼の意。モデルは[[勇利アルバチャコフ]]<ref>別冊宝島四〇九号「ザ・マンガ家」 212-215ページ。</ref>。
== 得意技 ==
;ホワイトファング
:左アッパーと打ち下ろしの右の左右高速コンビネーション。[[オオカミ|狼]]が上下の牙で噛みつく様子になぞらえて語られている。例えガードされても、
:*マイク戦では「飛燕」と「燕返し」を絡めた改良型の「ホワイトファング」を使用している。
;飛燕
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;燕返し
:「飛燕」と同じく浜団吉から授かった、拳を縦にすることでガードをすり抜けるアッパー。
:*
;デンプシー破り
:[[デンプシー・ロール]]に対するカウンター。ウィービングのリズムに合わせてバックステップし視野を確保、直後フックに合わせてカウンターを放つ。
== 脚注 ==
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