「徳川家康」の版間の差分

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安海 (会話 | 投稿記録)
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9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・[[島清興|島左近]]と[[宇喜多秀家]]の家臣・[[明石全登]]が奇襲、それに対して東軍の[[中村一栄]]、[[有馬豊氏]]らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・[[野一色助義]]が戦死している([[杭瀬川の戦い]]。<ref>なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・[[揖斐川]])で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは[[神戸町]]の項を参照のこと</ref>)。
 
家康は自らの[[軍師]]で[[臨済宗]]の禅僧である[[三要元佶|閑室元佶]](関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による占筮を行わせ、大吉を得た。
 
9月15日午前8時頃、美濃国・[[関ケ原町|関ヶ原]]において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の[[小早川秀秋]]の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに[[脇坂安治]]、[[朽木元綱]]、[[赤座直保]]、[[小川祐忠]]らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ[[島津義弘]]の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった('''[[関ヶ原の戦い]]''')。なお、この日は奇しくも長男・信康の命日であった。
 
9月18日、三成の居城・佐和山城を落として[[近江国]]に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には[[小西行長]]、[[安国寺恵瓊]]らと共に[[六条河原]]で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく[[処刑]]・[[改易]]・[[減封]]に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、[[淀殿]]に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各[[大名家]]の領地に含めていた[[太閤]][[蔵入地]](豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は[[摂津国]]・[[河内国]]・[[和泉国]]の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は[[天下人]]としての立場を確立した。
 
=== 征夷大将軍 ===
慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に[[豊臣秀次]]が解任されて以来、空位となっていた関白に[[九条兼孝]]が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏のみによる関白職世襲を終わらせた(豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない)。