「サスキア・ファン・オイレンブルフ」の版間の差分

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[[画像:Self-portrait with Saskia.jpg|right|thumb|200px|サスキアとレンブラント、[[エッチング]]、[[1636年]]]]
サスキアは4人の子供を生んだが、うち3人(1635年末に生まれた長男ルンバルドゥス、1638年に生まれた長女コルネリア、1640年に生まれた同名の二女コルネリア)は生後間もなく亡くなった。しかし[[1641年]][[9月22日]]に息子が生まれ洗礼を受け、サスキアの姉妹ティティア・ファン・オイレンブルフ(Tietje、Titia van Uylenburgh)にちなんでティトゥスと名づけた。しかし翌年、サスキアは29歳で亡くなった。死因は[[結核]]といわれており、アムステルダム市内の「旧教会」(Oude Kerk)に埋葬された。サスキアは死の床で[[遺書]]を書いており、遺産相続人は8か月の息子ティトゥスとされ、レンブラントは再婚しない上でティトゥスが亡くならなければ彼女の遺産に手をつけてはならないとされた。
 
== 死後 ==
レンブラントはサスキアの死後に息子ティトゥスの[[乳母]]として家に入った[[ヘールチェ・ディルクス]](Geertje Dircx)にサスキアのものだった宝石類を与えており、こうした行為はオイレンブルフ家の親戚からは良く思われず、この時期にヘンドリック・ファン・オイレンブルフの画廊との契約も途絶えてしまった。数年立つとヘールチェはレンブラントとの結婚を望んだが、レンブラントは再婚に同意するとサスキアからの遺産が失われると懸念した。ヘールチェが家を出され、レンブラントからもらった宝石を売ろうとしたため、レンブラントは法廷に訴えて[[1650年]]に彼女を[[ゴーダ]]にある感化院に閉じ込めさせた。
 
息子ティトゥスと、1647年頃にレンブラントの[[メイド]]として家に入った若い恋人[[ヘンドリッキェ・ストッフェルス]](Hendrickje Stoffels)は晩年のレンブラントの生活を支えた。[[1660年]]、2人は画商を始め、破産したレンブラントを雇うという形を取った。レンブラントは彼らに雇われるという形を取ることで、債権者に煩わされずに絵を書くことに専念できた。しかしヘンドリッキェが没する前の[[1662年]][[10月27日]]、金に困っていたレンブラントはヘンドリッキェの没後の埋葬資金をつくるために旧教会のサスキアの墓を売ってしまっている。
 
== ギャラリー ==
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* [http://www.gravenopinternet.nl/en/index.html Look under famous names for her grave]
 
{{DEFAULTSORT:ふあんおいれんふるふ さすきあ ふあん}}
[[Category:オランダ共和国の人物]]
[[Category:1612年生]]
[[Category:1642年没]]