「律令制」の版間の差分

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# [[戸籍]]・[[計帳]]・[[班田収授法]]を制定すること
#租税制度を再編成すること
であった。[[20世紀]]中後期頃までは、[[大化の改新]]が日本の律令制導入の画期だったと理解されていたが、[[20世紀1967年]]後期頃12月、[[藤原京]]の北面外濠から「[[己亥]]年十月[[上総国|上捄国]][[安房郡|阿波評]]松里□」(己亥年は西暦[[699年]])と書かれた[[木簡]]が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、[[改新の詔]]の文書は『[[日本書紀]]』編纂に際し書き替えられたことが明白になり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、必ずしも律令制史上の画期とは見なされなくなってきた。例えば、改新の第一の方針は[[公地公民制]]を確立したものとして評価されてきたが、これは王土王民の理念を宣言したのみに過ぎず、改新時に公地公民制という制度は構築されなかったとする見解も有力となりつつある。大化の改新は日本書紀に描かれるほどの画期的な改革ではなく、その後、改革への動きは停滞したとする見解が広範な支持を集めているのである<ref>木下正史『藤原京』「藤原京の出土の木簡が、郡評論争を決着させる」(中央公論新社、2003年 p64)</ref><ref>市大樹『飛鳥の木簡』「大化改新はあったのか」(中央公論新社、2012年 p49)</ref>
 
律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。[[660年]]の[[百済]]滅亡と、[[663年]]の百済復興戦争([[白村江の戦い]])での敗北により、[[唐]]・[[新羅]]との対立関係が決定的に悪化し、[[倭国]]朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機感を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の[[天智天皇]]は[[豪族]]を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった。この時期に編纂されたとされる[[近江令]]は、国制改革を進めていく個別法令群の総称だったと考えられている。天智天皇による国制改革は全国に及んでおり、[[令制国]]と呼ばれる地方[[行政区画]]が形成されたのもこの時期である。こうして、地方での人民支配が次第に深化していき、670年頃になると地方支配の浸透を背景に、日本史上最初の[[戸籍]]とされる[[古代の戸籍制度|庚午年籍]]が作成された。戸籍は、律令制の諸制度を実施するために必要な要素であり、最初の戸籍がこの時期に作成されているという事実は、班田収授制が大化の改新時に始まったのではなく、天智天皇以後に始まったことの反映であるとする見解が有力となっている。
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* 利光三津夫 『律令制の研究』 慶應義塾大学法学研究会叢書 [[慶應義塾大学出版会]] ISBN 4766402499
* 村井康彦 『律令制の虚実』[[講談社学術文庫]]1703 [[講談社]] ISBN 4-06-159703-5
* 木下正史 『藤原京』 [[中央公論新社]]、2003年、ISBN 4-12-101681-5
* 市大樹 『飛鳥の木簡』 中央公論新社、2012年、ISBN 978-4-12-102168-7
 
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