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'''神保修理'''(じんぼ しゅり、
== 経歴 ==
===幼少時代===
神保内蔵助利孝の長子として生まれる。神保家は藩内の名門の一つであり家禄は
長輝が多感な年代を迎えた頃、折りしも[[黒船来航]]にはじまる[[鎖国]]の終焉、更には[[安政の大獄]]、[[尊王攘夷]]運動など幕末動乱の気運が高まっていた時代であった。その影響もあり、海の向こうの異国の情勢にも目を向け、国内の小事より国をひとつにして外国に対すべし、という持論を強くもつようになっていく。
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藩主・[[松平容保]]は、各藩で行なわれている藩政改革に遅れまいと会津藩内においても人材登用と軍制改革を断行。とくに長輝と[[佐川官兵衛]]の将来を嘱望していたとされ、藩の重役に登用する。ほどなく容保が[[京都守護職]]を拝命してのちは側近くにあって容保に随行し国事に奔走した。同じ頃、長輝の才覚にいち早く目をつけていた藩内の実力者・[[野村左兵衛|野村直臣]]の仲介で、軍学者である会津藩700石・[[井上丘隅]]の次女・雪子と婚礼を結んだ。ちなみに、井上の長女・ちか子は野村に嫁いでいるため、縁戚関係となった。
慶応2年
===鳥羽・伏見の戦いに際して===
慶応3年
翌慶応4年
===悲運の最期===
総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、長輝が将軍に恭順を進言したことにはじまると会津藩内で一方的に意見が上がり、ついには全藩からも鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人としての烙印までも押されてしまった長輝は和田倉上屋敷に幽閉される。
会津内部では、長輝の処罰を容保に迫る動きが加速する。長輝の窮地を救おうと親交のあった幕臣の[[勝海舟]]は、身柄を幕府に引き渡すよう慶喜を通じて画策したが、これが裏目に出て抗戦派の怒りを買った。長輝を処断すべしと動いた有志らの陰謀により三田下屋敷に移送された長輝は容保との謁見も許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた。君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣である、と潔く自刃する。「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」が辞世と伝えられている。
墓は東京都港区白金台の興禅寺。諡は遺徳院殿仁道義了居士。
== 人物 ==
* 国外事情に通じていた長輝は、後年活躍する多くの志士の思想に影響を与え、長州藩士の[[伊藤博文|伊藤俊輔(後の博文)]]など奇しくも倒幕派の若者たちに支持されていた。たとえば[[坂本龍馬]]は長州藩支藩の長府藩士で、薩長の盟約直後に寺田屋で襲撃を受けた際の同士である[[三吉慎蔵]]に、慶応3年2月16日に送った書簡で
* 自刃の前日、
* 妻・雪子との夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、長輝も雪子に対して愛情を注ぎ周囲からも羨望の的であった。夫の自刃後、雪子もまた同年8月の[[会津戦争]]において薙刀を手に[[婦女隊|娘子隊]]に参
▲*自刃の前日、『一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃(たお)れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ。』という心情を綴った詩を勝海舟に贈っている。海舟もまた、長輝の死を悲しみ貴重な逸材を失ったことを惜しんだ。『旧会津藩先賢遺墨附伝』
▲*妻・雪子との夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、長輝も雪子に対して愛情を注ぎ周囲からも羨望の的であった。夫の自刃後、雪子もまた同年8月の会津戦争において薙刀を手に娘子隊に参戦したといわれるが、父の井上丘隅から夫の後を追えと実家に迎え入れられず(実家の女性は入城せずに全員自決)、彷徨中に大垣藩兵の捕虜となったすえ(凌辱されたという説もある)、放免を主張した土佐藩士[[吉松速之助]]の短刀を借りて、壮絶な自決を遂げている。
== 登場作品 ==
▲*'''Vシネマ'''
▲** [[実録 新選組]](2006年 演:[[國本鐘建]])
==脚注==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:しんほ しゆり}}
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