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'''松平 定頼'''('''まつだいら さだより'''、[[1607年]]([[慶長]]12年) - [[1662年]][[3月12日]]([[寛文]]2年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]))は[[江戸時代]]の[[大名]]。[[伊予国]][[伊予松山藩|松山藩]]主。[[松平定行|松平隠岐守定行]]の嫡男として誕生。母は内室長寿院殿([[島津忠恒]]の養女、実父[[島津朝久]])。官位は従五位下、[[河内国|河内]]守・[[隠岐国|隠岐]]守。
 
[[万治]]元年([[1658年]])2月28日(2月27日とも)、父定行の隠居により家督および[[長崎探題]]職を継承する。その翌年、従五位下から四品に昇叙し、寛文元年([[1661年]])、河内守から隠岐守に転任。翌年正月22日、江戸松山藩邸三田中屋敷にて落馬、そのまま危篤に陥り卒去した。[[享年]]56。松山入りはわずか3回であった。院殿号は乾光院殿前四品最巌阿尊道英大居士。遺骸は江戸三田済海寺で荼毘に付され、遺骨が松山古町大林寺、分骨が[[高野山]]に葬られる。
 
{{先代次代|[[伊予松山藩|伊予松山藩(松平氏2代)]]|1658~1662|[[松平定行]]|[[松平定長]]}}
 
[[Category:江戸の大名|まつたいらさたより]]