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'''アン・オブ・クレーヴズ'''('''Anne of Cleves''', [[1515年]][[9月22日]] - [[1557年]][[7月17日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の4番目の王妃(1540年結婚、同年離婚)。[[ドイツ語]]名は'''アンナ・フォン・クレーフェ'''
== 生涯 ==
[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国|ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公]][[ヨハン3世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公)|ヨハン3世]]の娘として生まれた[[ドイツ]]人のアンは、ヘンリー8世に[[プロテスタント]]の王妃をと希望していたヘンリーの家臣[[トマス・クロムウェル]]らの意向で王妃の候補に選ばれ、イングランドへ嫁ぐことになった。
アンはわずか半年で王から離縁され、「王の妹」(the King's Beloved Sister)という称号と所領([[アン・ブーリン]]の邸宅の
ヘンリー8世が学識にあふれ、音楽やダンスを好んだのに対し、(故国の女性教育を反映して)アンは[[ラインラント]]の[[ドイツ語]]しか話すことも書くこともできず、音楽やダンスの教育も受けていなかった。ラインラントの貴族女性の必須教育は刺繍などだったのである。しかし、イングランドに住むと決めて以降は英語に適応し、さほど不自由もしなかったようである。ただし小説などではよく、ドイツ語式にWをVと発音する人物と表現されている。
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* ダイクストラ好子「王妃の闘い」では、アンは実は美人だったが、最初に会った際の経緯からヘンリー8世が、アンと会うたびに自分が年を取ったことを思い出すので離婚したとしている。実際、ホルバイン以外の画家が描いた複数のアンの肖像画を見ても、ホルバインの描いたアンの肖像画とあまり違いはないようである。
* また、政治状況が変わったためクレーフェ公の援助を必要としなくなったことから結婚に消極的になった、という理由が多くの歴史書で挙げられている。
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* 石井美樹子「エリザベス 華麗なる孤独」の後書きによると、エリザベス1世について執筆中、[[ケンブリッジ大学]]図書館で見つけた書類の中に、ヘンリー8世の侍医がアンとの新婚初夜の翌朝「いかがでしたか」と聞くと[[ラテン語]]で「臭くて眠れなかった」とヘンリーが答えたと書いてあった。
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* ダイクストラ好子『王妃の闘い』
* 渡辺みどり『英国王室物語』
* Antonia Fraser ''"The six wives of Henry VIII"'', London: Phoenix, 1992, ISBN 1-84212-633-4
* Margaret Simpson ''"Elizabeth I and her Conquests"'', London: Scholastic, 2001, ISBN 0-439-95575-0
* David Starkey ''"Six Wives : Queens of Henry VIII"''
* Alison Weir ''"The six wives of Henry VIII"''
== 小説 ==
* フィリッパ・グレゴリー 『ブーリン家の姉妹4 悪しき遺産』、集英社文庫、上下巻
* Barnes, Margaret Campbell ''"My Lady of Cleves"''
{{Commons|Anne of Cleves}}
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