「東郷青児」の版間の差分

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* [[1915年]](大正4年) - [[山田耕筰]]の東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室で制作。日比谷美術館で初個展、この頃[[有島生馬]]を知り、以後師事。
* [[1916年]](大正5年) - 第3回[[二科展]]に初出品した『パラソルさせる女』により二科賞を受賞。
* [[1920年]](大正9年) - 永野明代(はるよ)と[[結婚]]。
* [[1921年]](大正10年)から[[1928年]](昭和3年)<!-- ?, 帰国を1930年とするソースあり -->まで[[フランス]]に留学。リヨン美術学校に学ぶ。この頃の作品には、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]らの影響が見られる。[[長男]]の志馬誕生。
* 1928年(昭和3年) - 第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。
* 1929年(昭和4年) - [[愛人]]の西崎盈子(みつこ)と[[メス]]で[[頸動脈]]を切り、[[ガス]][[自殺]]をはかったが、救出される<ref>[http://www.gei-shin.co.jp/comunity/17/10.html Art Access]</ref>。[[宇野千代]]と[[同棲]]を始める(宇野の『色ざんげ』は東郷をモデルにした主人公が自らの情死未遂事件を語るというもの)。
* [[1930年]](昭和5年) - <!-- (国立国会図書館データベースより) -->[[ジャン・コクトー]]の『怖るべき子供たち』を翻訳、白水社より刊行。
* [[1931年]](昭和6年) - [[二科会]]入会。
* [[1933年]](昭和8年) - 宇野千代と別れ、妻の明代とも離婚。情死未遂事件の相手、みつ子と翌年結婚。
* [[1938年]](昭和13年) - 二科会に「九室会」が結成され、[[藤田嗣治]]と共に顧問になる。
* [[1940年]](昭和15年) - みつ子との間に長女、たまみ誕生(のちに[[水谷八重子]]、[[朝丘雪路]]とトリオを組んで[[歌手]]デビューし、その後画家にな<ref>[http://www18.ocn.ne.jp/~natume/tougoutamami.html 「東郷たまみ略歴」ギャラリー夏目]</ref>、二科会会長も務める)。
* [[1957年]](昭和32年) - [[岡本太郎]]と共に[[日活]][[映画]]『誘惑』に特別出演(西郷赤児役)。日本芸術院賞受賞。
* [[1960年]](昭和35年) - [[日本芸術院]]会員。
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* [[1976年]](昭和51年) - 東京・[[西新宿]]に東郷青児美術館(現在の[[損保ジャパン東郷青児美術館]])が開設。勲二等旭日重光章授与。
* 1978年(昭和53年) - 4月25日、第62回二科展([[熊本県立美術館]])出席のため訪れていた[[熊本市]]にて、急性心不全のため死去。没後、[[文化功労者]]、[[旭日章|勲二等旭日重光章]]、正四位追贈。
* [[1983年]](昭和58年) - 娘・たまみが艶福家であった父の性愛日記を公開<ref>[http://www.romando.net/php/detail.php?title_no=44028 「父・東郷青児の性愛日記を公開(手記=東郷たまみ)」PENTHOUSE 1983.12号]</ref>。同年、読売新聞の東郷番記者だった田中穣も伝記を出版し、夢二の妻たまきとの関係や二科会での帝王ぶりなどに触れた。
 
== 著書 ==