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Ichiro Kikuchi (会話 | 投稿記録)
→‎来歴・人物: 学位論文
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[[高知県]]出身。[[高知県立高知追手前高等学校|高知中学]]を経て、[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]][[卒業]]。[[東京大学|東京帝国大学]]では[[法学部]]から独立したばかりの[[経済学部]]の第一期生として統計学を[[糸井靖之]]の演習にて学ぶ。また[[河合栄治郎]]の講義を熱心に聴いた。在学中に[[森戸事件]]が起こる。[[大内兵衛]]に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年に同大学を卒業後、[[助手 (教育)|助手]]を経て1924年に同大経済学部統計学講座の[[准教授|助教授]]となる。同年、同大[[講師]]の[[猪間驥一]]を大学から追放した。1926年 - 1928年までは、同大学医学部助教授で同志の[[国崎定洞]]とともに[[ドイツ]]に留学。そこで[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和制]]に感銘を受け、帰国後、共和制打倒を掲げ台頭した[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ナチス]]を激しく批判した。
 
[[ファシズム]]の波が社会を覆った時代にあって、1938年、有沢は[[人民戦線事件]]により大内らと共に[[治安維持法]]違反で起訴され、東大を休職処分となる。しかし結果として1944年9月に、二審で無罪となる。戦時中は[[秋丸機関]]([[大日本帝国陸軍]])に所属し、欧米と日本の経済比較を行った。敗戦後の1945年、東大経済学部に教授として復帰すると、吉田茂の私的ブレーンや[[エネルギー]]問題の専門家として活躍。戦後復興期における政府の[[傾斜生産方式]](石炭・鉄鋼等、主要産業の復興を優先する方式)の立案者となる。1950年 経済学博士 「日本工業統制論」 1956年に東大を退官。退官後は、[[法政大学]]経営学部教授・総長(1956年 - 1962年)、[[原子力委員会]]委員長代理、[[産業計画会議]]委員(議長・[[松永安左ヱ門]])、[[日本原子力産業協会|日本原子力産業会議]]会長(第3代、1973年-1988年)、[[学士会]]理事長(第5代、1974年-1988年)などを務めた。1985年、[[中国社会科学院]]より[[名誉博士|名誉博士号]]を授与された。
 
1966年叙[[勲等|勲一等]]授[[瑞宝章]]。1975年授[[旭日章|旭日大綬章]]。1981年[[文化功労者]]。1988年叙[[正三位]]。